11月の法話 

”お寺は死んでから用がある所?”

      どうも、お寺は死んでから用事のあるところだと思われている方が多いようです。

     そのことを子供に思い知らされたことがありました。                 

        先日、私のお寺で70歳代の女性(仮にAさんとしておきましょう)の49日の法事が

     ございました。お参りされたのは、Aさんの夫・娘さん夫婦とお孫さんです。

     法事が終わり、私の妻が長男をつれて本堂にお茶を入れにきてくれました。

     丁度、私の長男は、Aさんのお孫さんと同じ位の歳ですぐに一緒に遊び始めました。

     そのうち、鐘は鳴らすは、本堂中駆け回り仏具をいたづらし始めたので、お母さんが見

     るにみかねて、「もう帰ろう」と言いました。でも、楽しかったのでしょう、なかなか

    「うん」と言いません。そのうち、おじいちゃんが「また来ればいいじゃないか、今度

     はおじいちゃんと来よう」と言いますと、ようやく納得したようで「うん、わかった」

     と言います。そこまでは良かったのです。

     その後、「今度は、おじいちゃんが死んだらお寺に来るんだね」と言ったのです。

     その場の雰囲気は一気に暗くなりました。私も妻も思わず苦笑い、言われたおじいちゃん

     も怒るに怒れず、とても気まずそうな顔をしておりました。でも、子供は、別におじいちゃ

     んを困らせてやろうと思って言ったのではありません。正直に順番からいえば、次にお寺に

     来るときは、おじいちゃんの葬式か法事と思ったのでしょうね。

     ここでお話したいことの、ひとつは、今度はおじいちゃんの番であれば、いいけれど・・。

     決して順番どおり生まれた順に死んでいくとは限りませんということです。もうひとつは、

     お寺は死んでからお世話になるのでは遅いということです。

     浄土真宗のお寺は聞法の場であります。

     お寺は死んでからお世話になるところではなく、仏様の教えを聞かせていただく場であ

     り、その教えは亡くなられた方の為ではなく、生きている者の為にあるのです。

     その証拠に、仏教はお釈迦様の説法がもとですが、お釈迦様は亡くなられた方に説法し

     たのではありません。約2500年前にインドの地において、生きている者の為に、安心し

     て生き、安心して死んでいける道を説かれたのです。

     今回、法徳寺ではホームページを開設しましたが、大部分の方がお寺は死んでからお

     世話になるところと思っていらっしゃると思いますが、そうではなく、生きているうち

     に法に出会っていただきたいと思っております。

     どうぞ、宜しくお願いします。    合掌。 副住職 伊東 英幸。