12月の法話  

      

「目覚」

 昨年、私は熊本県の祖母が亡くなり、家族でお葬式に行きました。お葬式では、私が、受

付を担当することになったのです。お通夜の開式が近づいてくると、参列者の方々が、

続々と来られました。一時、大変忙しく仕事をこなしておりましたが、一段落した時

に、いただいた香典袋にはすべて、「目覚」と書かれている事に気付いたのです。

私の常識では、香典袋に書いてある言葉は「御香典」「御霊前」「御仏前」などであ

ります。不思議に思い、地元の方に尋ねてみますと、意味ははっきりしないが、この

辺りでは、これが常識なのだそうです。気になったので、次の日に僧侶の方に聞いて

みますと3つのいわれがあることがわかりました。

 「目覚」と書くのは、お通夜の晩だけで、このように書くのは熊本でも一部の地域

だけだそうです。その意味は、昔はお金だけではなくて、米や食べ物に「目覚」と書

き、通夜にお持ちしました。そして、一晩中、線香を絶やさないように、これを食べ

て目を覚ましていたのだそうです。

 2つめは、やはり愛する方にもう一度「目覚めて欲しい」という意味がこめられて

いるとのことです。

 3つめが、私は大変、印象的でした。それは、愛する方の死を御縁にして「仏法に

目覚めよ」という意味だということです。これはとても、有り難いことだなーと感じ

ました。

 私は、亡き方との別れを悲しむのではなく、出会えたことを喜ばせていただくこと

が、葬儀の大切な意義であると思います。私たちは本当にまれな御縁によって、出会

う事ができたのです。そしてもう一つ、亡き方が私たちに阿弥陀如来様との出会いを

与えて下さったのです。「お前も死んでいかなければならないのだよ。今、安心して

生きていますか。安心して死んでいけますか。」と亡き方が、「仏法に目覚めよ」と

私たちに願いをかけて下さっているのです。その願いを残された者が大切に受け止め

なければならないのであります。

 仏教は、「目覚める」ということが大切なのです。阿弥陀如来様は、私たちを目覚

めさせたいと片思いをしてくれております。しかし、残念ながら私たちが、その思い

に目覚めることは稀なことなのです。何と、如来様が片思いをされている方が多いこ

とでしょうか。多くの方が、如来様に出会えずに亡くなっていくのです。

 仏法に目覚めさせていただきますと、如来様は私の最大の不安であります「死」を、

心配のないようにして下さっておりました。阿弥陀如来様ご自身が「南無阿弥陀仏」

の声の仏様となって、「死ぬのではない。お浄土へ生まれるのだよ。何の心配もいら

ないよ」と私に至り届き、既に救いが成就されていることを知らせて下さっておりま

した。私は、南無阿弥陀仏と称えさせていただきますと、とても安心しますのは、

南無阿弥陀仏とは、私の言葉ではなく、如来様が私に到り届き「心配ないよ」と呼ん

でくださっている呼び声だからであります。その法に出会えたら、ただただ「有り難

いことだ」とお礼を申す以外にはないのです。

 ご葬儀は、亡き方を偲び、残された者が、仏法に目覚める大切な場であります。そ

れは同時に、生きているうちに仏法に出会うことが何よりも大事なことであるという

ことなのです。そのことを抜きにしたら、浄土真宗の葬儀を勤める意義はどこにもな

いのです。私も祖母のお陰で、そのことを再認識させていただきました。

合掌  副住職  伊東 英幸