2007.1.2

法徳寺 新年法要

      平成19年法徳寺新年法要報告

 去る1月2日午後1時30分より、平成19年法徳寺新年法要をお勤めさせて頂き、読み上げ用紙をお送り頂きました、皆様のお名前を読み上げ致しました。晴れ渡る空の下清々しい新春を迎え、本堂が満堂になる盛況でした。詳細を以下に報告致します。

 

式次第

・ 表白

     新年法要参加者名並びに、事前申込者名読み上げ

     正信偈拝読

     代表役員挨拶

     法話

     解散後境内にて甘酒振る舞い

 

今回新たな企画として参加者に甘酒を振る舞いました。これは昨年立ち上げました法徳寺壮年会会員の方の有志によるもので、地元黄金井酒造より購入の酒粕を使い、大釜と直火で作り上げた本格的なもので、味が良いと大変好評でした。次回参加の際には是非ご賞味頂きたいと思います。

 

法話内容報告

テーマ 〜念仏とは何か〜

 皆さん初詣には行かれたでしょうか?複雑な顔をする人の中、まだ行って無いという方もいました。参加者の中で初詣にまだ行ってないというのはあり得ません。なぜなら、もうお寺に来てお参りをしているからです。どうも、最近は有名神社仏閣に参拝しなくては、初詣に行った気がしないという風潮があるようですが、初詣は、自分の信奉する宗派のお寺に参拝するのが最も有意義なことなのです。

 では浄土真宗のお参りの仕方を実演しましょう。言うまでもなく、手を組んで「アーメン」ではありません!手を叩いたりもしませんし、手のひらをスリスリ擦ったり、念珠をジャラジャラ鳴らしたりもしません。正しい作法は以下のとおりです。

合掌・・両手の平を合わせ、念珠は親指と人差し指の間に、房を下にして掛ける。そのまま胸の前に45°の角度で保ち、称名念仏する。

礼拝・・その姿勢のまま腰から前方に45°傾ける。〜結構急角度で傾けるそうだ〜

 

そこで、称名念仏(声に出し称える)する、念仏とは一体何なのか解明します。

南無阿弥陀仏{なあみだぶつ、お東(大谷派)では、なあみだぶつと発音する}←この読み方はお経などでの読み方で、普段念仏を称えるときは{な(ん)まんだーぶ}と称えることが多い。

 

ここで、後半の阿弥陀仏はお浄土におられ、象徴としては本堂や仏壇に安置されている、私たちの礼拝の対象のことです。

そして南無ですが、これインドの挨拶「ナマステー」で説明できます。ヒンディー語で「テー」は「あなた」、「ナマス」は「尊敬します」という意味です。それが古代インド、サンスクリット語では「ナモー」だったそうで、それが中国に伝えられたとき音写されて、南無になったそうです。つまり南が無いという意味は全くなく、音だけ合わせたのです。また意訳するならば「帰命」となり「自分の命を捧げ全てをお任せします」という意味になります。

それらをふまえた上で、様々な願いを念仏に込めて良いのか例をあげ賛否します。

     「年末ジャンボ当たりますように」・・・これは如何にも不味いでしょう。自分の欲を叶えるためにお念仏を称えるのでは本末転倒です。

     「息子の受験、合格しますように」・・・同じ願いでもこれなら良いような気もしますが・・「絶対合格させて下さい!」というのでは仏さまも保証できません。いくら願っても点数は上がりません。でも「合格できるよう見守っていて下さい」というのなら良いと思います。

     今年一年健康でありますように・・・気持ちは分かりますが諸行無常が仏の教えです。阿弥陀さまはもう既に見守っていてくれているのです。

 

そもそも以上のような願いを込める必要はないのが念仏の教えです。黙っていても、もう、既に見守っていてくれているのです。これは譬えて言うと「お母さん、お願いだから朝ご飯作って」だとか「お父さんお願いだから今日も会社行って」と言っているようなものです。

 ところで「帰命」には、前述の意訳とは異なりそのまま「命の帰るところ」という解釈が出来ます。つまり我々が命終えたら行く場所「お浄土」を意味します。私たちは死後、お浄土に帰るのですが、生まれ故郷もお浄土、つまり仏の世界からやってきて、人間界を楽しみ、お浄土に帰っていくのです。

 

そこであらためて念仏とは「故郷(お浄土)にかける電話(報告)」であると思うのです。私たちの生まれ故郷、お浄土におられるご先祖や皆さんの大事な人に「あなた(阿弥陀さま)に見守られながら元気に暮らしてますよ」と報告するのが念仏だと思います。念仏は自分の欲を叶える呪文ではなく、「今の自分は、あなたに支えられながら暮らしていますよ」とのお返しの言葉だと思います。ですから、出来るだけ多くお念仏を称える方がよいと言われるのです。

しかし(こんなこと言うお坊さんはいないだろう)私はあえて「思い出したときだけで良いのではないか」と思います。「便りがないのはよい便り」とも言いますが、念仏や供養を毎日一生懸命するより、先に行かれた故人は「私の残した意志を継いで頑張ってくれ」と言っていると思うのです。お浄土では、誰もが仏となり安心して暮らしております、ですから、私たちが必要以上に追善供養する必要はないのです。それよりも毎日を一生懸命、仕事に勉強にスポーツに励む方が仏さまを喜ばれるのではないかと思うのです。ですから時々で良いから仏さまの世界を思い念仏する、これだけで故郷への電話は十分なのです。

以上当日法話時間30分 法話及び報告作成 伊東知幸