平成19年 報恩講

      

      

平成十九年度、法徳寺 報恩講法要を勤めさせて頂きました。
報恩講は、親鸞聖人の命日(一二六二年 十一月二十八日(新暦一月十六日)九十歳で往生)に、毎年、二日間にわたり、お勤めされます。
浄土真宗の開祖親鸞聖人をはじめ、皆様のご先祖に感謝する、浄土真宗寺院にとって、一番大切とされ、八百年の伝統のある行事でござい
ます。当日は、たくさんのお参りを頂き、また、事前に御布施をお送り頂き、誠にありがとうございました。お陰で、盛大にお勤めることが出来ました。
ここで、当日の逮夜法要より、副住職の法話の一部を、ご紹介
させて頂きます。

報恩講
 報恩講は、毎年、親鸞さまの命日の前後に、行われる法要でありますから、親鸞さまの法事をお勤めし、ご遺徳を偲び、感謝する法要です。
また、二日間ということですから、毎年、親鸞さまの通夜、葬儀をお勤めさせて頂くという解釈も出来ます。

お葬式
先日、あるテレビドラマを見ておりましたら、小学生が、祖父の葬儀にお参りした後、「お父さん、お葬式って死んだ人の為だけにあるんじゃない
んだね。生きてる人が、亡くなった人の死を乗り越えるためでもあるんだね。」というセリフがあり、なるほどなと思いました。 亡き方は、残された
者を見守り、良き方向へ導き、多くの学びをさえてくださる存在なのです。皆さんは、人生で何が一番幸せだと思いますか?仏教では、怖いものが
ない、不安がない、迷いがないということだと教えてくださいます。これほど、生きていく上で強いことはありません。しかし、生きとし生けるもの、誰
一人として、不安がない、迷いがないという人はいません。

テレホン人生相談
私、ラジオ番組のテレホン人生相談が大好きで、よく聞いているのですが、先日、その番組で次のような言葉を紹介されておりました。フランスの
詩人「バレリー」の言葉「人生とは、湖に浮かべたボートを漕ぐように、人は後ろ向きに未来へ入っていく。目に映るのは過去の風景ばかり、明日の
景色は誰も知らない」。この言葉を聴いて、なるほどなと思いました。みんな、未来は、わからないけれども、頑張って生きているのです。未来は、誰
も見ることが出来ません。
 しかし、たった一つ、確かなことは、必ず、死ということがあるということです。皆さんの中で、亡き方が迷っている、不安がっているから、お経をあげ
なければ、迷ってしまうと思っていらっしゃる方はおりませんか? そして、先祖が迷っていると、生きている者に、タタリをもたらすから心配だと思って
いませんか?
 しかし、浄土真宗の教えでは、そのような不安や迷いの心が起こるのは、先祖が迷っているのではなく、生きている私たちが、不安な毎日を送り、
迷いの存在だからですと教えてくれているのです。そういう、私たちの姿をご覧になって、亡き方は、阿弥陀様と共に、残された皆さまを、心配されて
おります。死んでいく人生ではなく、浄土へ生まれていく人生ですよ。そして、人生何が起こるかわからないけれども、不安がったり、迷ったりしない
でください、私がしっかりと支えていますから、私に任せてくださいと仏様は私たちに呼びかけてくださるのです。
 私たちをご覧になって、仏様は、安らかに眠っていたり、ほってはおけないのです。皆さんが、救われることが、亡き方が救われることなのです。
 仏教の教えに、縁起の法がございます。縁起の法とは、世の中は、持ちつ持たれつ、関係ないものは、何一つないということです。
私たちは、たった一人生きているのではないですよ、一人では生きられないですよということです。

小島よしお
今、お笑い芸人の中で、一番、人気があるのは、誰だか知ってますか? 水着姿で登場し、「でも、そんなの関係ね〜、でも、そんなの関係ね〜」を
連発する小島よしおという方です。
 そして、いつも最後に「オッパッピー」という意味不明な言葉を言うのですが、とにかく、面白い、私も大好きです。
 その「オッパッピー」という意味不明な言葉は、オーシャン ・ パシフィック ・ ピース(ocean ・ pacific ・ peace 太平洋に平和を)という、平和を願って
の言葉だそうです。
 仏教という宗教は、平和を重んじる宗教です、世界の各地で宗教戦争が起こっておりますが、仏教徒が、宗教戦争を起こすことはありません。それは、
相手を受け入れるという教えだからです。みんな、自分に関係ないものはないのだ、一人では生きられないのだ、自分にとって、嫌な、都合の悪い方も
いるけれども、それも、自分に学ばせてくれる方なんだと教えてくれるのです。
 前に、「ポックリ寺繁盛記」というテレビ番組が放映されました。お参りしているお年寄りたちが異口同音に言われた言葉は「年をとってから、若いものの
迷惑にならぬよう、ポックリ死にたい」ということでありました。切実な願いでありますが、だが、人間は、老い、病み、死んでいくときだけ迷惑をかける存在
でありましょうか?


 ちょっと、汚い話で申しわけないのですが、私、月に一回、痔の治療に病院に通っております。そこの病院、大変、有名で、とても混んでいて、先生もたく
さんいらっしゃる、専門の病院なのです。
それが、この前、一時間半待たされて、やっと、呼ばれて診察室に入りましたら、担当医が、若い女医さんだったのです。
「えっ〜マジで!」と思いましたけど、帰るわけにもいかず、仕方がなく、診察して頂きました。しかし、私も嫌ですが、お仕事とはいえ、診察してくださる先生
は、もっと嫌だろうな、大変だろうなと思いますと、ほんと、迷惑かけて、申し訳ないという気持ちになりました。
 そういえば、痔という字は、『寺』という字が使われておりますね。聞いた話では、お坊さんは、座りっぱなしでお経を唱える。同じ体勢をとり続けているため
、血行が悪くなり、痔になる人が多かったそうです。
 また、寺は、「とどまる、続く」という意味があって、痔は、治りにくく、人生の最後、お寺にお世話になるまで治らないという意味があるともお聞きしました。

早朝のラジオ
先日、私、妻と二人で、日曜日の朝、茨城県に出かけ、早朝5時に出て、ふと、車のラジオをつけますと、東本願寺の時間というラジオ番組がやっていたのです。
そこで、紹介されていた言葉がとても、心に響くものでした。
             「人間は生きるために、にわとりも殺さなくちゃいけないし、豚も殺さなくちゃいけない。
            生きるってことは、ずい分迷惑をかけることなんだなあ。自分で自分のことを全部できたら、
            人は一人ぼっちになってしまう。他人に迷惑をかけるということは、その人とつながりをもつことなんだ。
            他人の世話をするってことは、その人に愛をもつことなんだ。
            生きるってことは、たくさんな生命とつながりをもつことなんだ。
            お乳をやった私に、温かい身体をおしつけてきた子牛のことを思った」
                                                  (無着成恭著『ヘソの詩』より)

これはある農地実験所を見学したあとに書かれた、小学6年生・山崎まどかちゃんの作文の一節だそうです。ここには常識や知恵で汚れてしまった大人の
世界からは及びもつかない、生きるということに対する新鮮な驚きと深い感動があります。
 目の前に見た、にわとりや豚や子牛が、やがて殺されて、人間の食料になることを聞かされたまどかちゃん。そのまどかちゃんに身体をおしつけてきた
子牛の体温を感じたときの、まどかちゃんの胸の鼓動が伝わってくるようです。「他人に迷惑をかけないで生きよう」と、月並みなことしか言えない大人たち。
「生きるってことはずい分迷惑をかけることなんだなあ。迷惑をかけるということは、その人とつながりをもつことなんだ。生きるってことは、たくさんな生命と
つながりをもつことなんだ」とつぶやくまどかちゃん。ここには、生命は私のものにあらず、限りなく多くの生命に支えられ、生きること自体が迷惑をかけずに
生きられない存在(生命)に対する驚きと謝念があります。
 
 どうぞ皆様、南無阿弥陀仏と念仏を称え、阿弥陀様、亡き方、親鸞様、自分の周りに方々に感謝をする日々で暮らしたいものです。
    
                                                     (平成十九年十月九日 報恩講逮夜法要 法話 副住職 伊東英幸)