朝題目に夕念仏

法徳寺は、この地域(相模組)では最も早い、10月10日に報恩講(親鸞聖人の命日に勤める法会)を勤めている関係で、近年10月には報恩講に関する法話を書いてきました。ところが実際親鸞聖人がお亡くなりになったのは、旧暦の11月28日です。ですから10月の法話にふさわしい内容が、他にはないかと調べたところ、親鸞聖人と同等の知名度がある日蓮聖人が、10月13日に亡くなられたことが分かりました。そこで今回は、日蓮聖人の日蓮宗を題材に加え、いくつかのことわざを混ぜながら、日本仏教の現状を考察してみたいと思います。

親鸞聖人の開かれた浄土真宗や、法然上人の開かれた浄土宗は「南無阿弥陀仏」と称えるのに対し、日蓮聖人の日蓮宗が「南無妙法蓮華経」と称えるのはあまりにも有名です。この2つの「呪文」(注意、それぞれ念仏、題目と呼ぶのが正しい)は、今も昔ももっとも広く知れ渡っている「二大お唱えの文句」と言っていいでしょう。(他にも南無釈迦牟尼仏など多数あります)

ここでやっと台詞に書いた「朝題目に夕念仏」の説明ができるのです。これは、朝には日蓮宗の信者のように題目を称え、夕には浄土宗・浄土真宗の信者かのように、しっかりした信仰を持たず、二つの教えに心を動かされている、欲深い人をあざ笑ったことわざです。このような信心では、どちらの教えも身に付くわけがありません。つまり「二兎を追う者は一兎をも得ず」と言えるでしょう。

 しかしこのことわざは、そのまま現代の日本人の宗教観を言い表しているとも言えます。法徳寺は檀家(当寺が仏事を行う家族)とのお付き合いだけでなく、紹介などにより新たな家族と出会うことが多々あります。その方々は宗派には、特にこだわりがないという人が少なくありません。いざ仏事となったとき多くの人は実家に電話をかけ宗派を聞き、その宗派を名乗り急遽にわか信者になるのですが、普段から連絡を取っていない人も多く、急に自分の実家に宗派など聞けません。実家との関係が薄くなれば、実家の宗派を受け継ぐ必要もなくなります。つまり故郷を離れ未だ家族に不幸が起きていない人の多くは、宗教に関心がないのはもちろん、自分の家の宗派も知らないのです。宗派の違いも分からなければ特にこだわりもありません。そうなるといざ仏事の際、葬儀社や霊園に僧侶の手配を願い「宗派にはこだわりがないから、どこのお寺でも構わない」となるのです。

 これはお寺にとっては残念なことです。日本人の宗教心が薄くなっていることもそうですが、多くの人が「どこの宗派でも構わない」と思っているからです。私どもとしては誰をも平等に救う、浄土真宗の教えを広めたいと思っているのですが。まあこれはどこの宗派でもそれぞれ同じように思っているでしょう。

これからは宗派どうしの信者の争奪などはさけ、各宗派一丸となって日本人の宗教心を厚くすることに、力を入れるべきと思います。そこでこんなことわざがあります。

「釈迦に宗旨なし」(仏教の宗派はすべて釈迦の教えをもとにしているので、宗派の争いは無意味である)

「宗旨の争い釈迦の恥」(仏教の宗派間の争いは、開祖である釈迦の恥となる)

どちらも同じような意味です。日本の仏教は鎌倉時代に広く宗派ごとに分かれ、江戸時代には檀家制度が確立し、各家族の宗派が決められました。宗派ごとの言い分はそれぞれあり「我が宗こそ優れている」と言い続けてきました。しかし前述のような現代の宗教事情を鑑みると、これらのことわざをあらためて重く受け止めなくてはならないのかも知れません。宗派の垣根を取り払うとまでは言えませんが、少なくとも他宗の教えも理解しておく必要はありそうです。我々若手僧侶が率先して仏教を盛り上げるため立ち上がらなくてはならないと思います。