写経(念仏)の功徳 

 最近、心身の修練を求める一般の人々に、修行僧の体験ができる機会を提供するお寺が、増えてきています。特に多いのが、座禅や写経、法話会などの気軽に参加できる修養会で、各地のお寺で催されているようです。座禅については、法徳寺は禅宗ではありませんので一切関与しないのですが、法話会はトップページにあるとおり、毎月2日に「ニコニコ法話会」と称して好評をいただいています。次に写経会についてですが、残念ながら今のところ開く予定はありません。しかしお経を写すという意味を十分理解して頂ければ、できれば開催してみたいと思っています。

 写経とは本来、まだ印刷技術がなかった時代に、僧侶たちが教えを学ぶために、一つの教典を自分で書き写すことでした。現代では、一般の人々がある意味では心のよりどころとして、あるいは願いや誓いを込めて行うようになってきました。印刷された教典がいくらでも手に入る時代に、一文字一文字集中し、ひたすら仏を信じて経文を書きつづる。そしてめまぐるしい日常の中で雑念を取り払い、いつもの時間の流れを取り払う。これは現代人にとって格好の憩いの場になるのかも知れません。

 しかし私たちが写経会を躊躇するのには訳があります。

一つには写経というと「般若心経」を写すのが一般的なのですが、浄土真宗の教えでは「般若心経」を称えないので、写経会に抵抗ができてしまうのです。しかし写経の成り立ちからしてもお経は何でも構わないので、これは理由にはならないかも知れません。

二つ目は、写経は毛筆で行うことから高い技術を要します。そこで単なる習字教室となるのではないかと思うのです。しかも私たちは習字の先生でもありませんし、達筆と言えるほどの技量もありません。まあこれは、テキストも沢山ありますし、私たちも共に学ぶという姿勢で臨めばよいのかも知れません。

最後に最も私が心配することは、写経が願いを叶えるための行為にならないかということです。一心に仏を信じて筆を書き進めるうちに、「この写経が完成した暁には何か良いことがあるだろう」などと思ってしまわないでしょうか。また「願い」をかけた上で写経することなども、浄土真宗の教えでは、仏にすべてを任せる他力の教えなので御法度となります。

それでは写経に全く意味がないかといったらそうではありません。私は写経の功徳(意味、利益)は、写経ができるという喜びそのものだと思っています。念仏を称えることも同じですが、念仏に出会う良きご縁があった、仏教徒であって良かった。そう思える喜びは何物にも代え難いのではないでしょうか。

親は自分の老後を見てもらうために、子を愛するのではありません。親が子を愛するのは、愛することが喜びだからです。子を愛するとき、まさにそのときに愛するという喜びを受けているのです。愛する喜びが、愛することの功徳なのです。

「南無阿弥陀仏」のお念仏の功徳は、まさにお念仏を称えさせて頂ける、そのものだと思います。それと同じように写経を捉えて頂ければ、大変有意義な写経会になるのではないかと思います。いつか機会がありましたら、実施に向けて検討してみたいと思います。