勧められない念仏

「お念仏を称えるとは一体何なのだろう」そう思うことはないでしょうか。僧侶歴13年の私は、未だにそれを考えることがあります。決して念仏の意味を理解してないわけではありません。念仏を称える場面や場所によって、いろいろな意味の念仏が存在するからです。また念仏のとらえ方は宗派によって様々です。宗派内でも開祖の説いた思想と現代の解釈では、とらえ方が違ったりします。また宗派で勧めるような念仏を、必ずしも守れない場合もあります。そこで今回は念仏を称える場面別に、勧められない念仏の例をいくつか挙げてみたいと思います。

@生命の危機などで慌てて頼み込むような念仏。 例「あ〜前の車にぶつかる〜!南無阿弥陀仏!」

これは南無阿弥陀仏の呪術的な力を信じて祈りを込める念仏です。気持ちは分かりますが、浄土真宗ではあまり勧められない念仏です。阿弥陀さまに任せて頼りにする浄土真宗の根本思想「絶対他力」に似ていますが、これはお浄土から見守っていてくれるという概念です。念仏によって具体的に危険を回避することは到底不可能です。安全運転をしましょう。

A幸運をもたらすように願う念仏。 例 墓前にて「おふくろ。今度の年末ジャンボは頼むよ〜。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」

 これはもう言うまでもなく間違った念仏です。煩悩と私欲にまみれた人のする、恥ずべき行為です。と強く言いたいのですが、もしこれが「おふくろ。1月の息子の受験、何とか頼むよ」という願いになると判断は難しくなります。「見守っていてくれよ」という意味なら良いのですが「絶対合格させてくれよ」と思っているようでは、ご先祖様も責任はとれません。少しでも多く勉強をさせましょう。

B遺体やお骨、位牌や過去帳に向かって称える念仏。 例 棺が自宅や葬祭場に運ばれてきたときなど、棺に向かって手を合わせ称える。

 納棺尊号(遺体の上に置く南無阿弥陀仏の札)がある場合はその本尊に向かっての、報告、生前の感謝の念仏になるので正しい念仏といえます。しかしそれが無い場合は事情が違ってきます。俗にご遺体を仏と呼びますが、ご遺体は今まで長きにわたって使わせて頂いた亡骸であって、故人自身は命終わると同時に極楽浄土へ旅立っているのです。ご遺体やお骨に向かって拝むのは理にかなっていません。

また浄土真宗では、位牌や過去帳に魂が宿るという考えはありません。ただし仏になると神通力によって、どこにでも舞い戻ってこられるという考えはあります。しかし通常は本堂や仏壇のご本尊に向かって称えたいものです。

C自らに課した試練とばかりに称える念仏。 例「今日は母の命日だから供養のために1時間正座して、念仏を称えよう」

 一見素晴らしい行為と思うでしょうが、阿弥陀さまに全てをお任せする浄土真宗では、煩悩にまみれた私たちが努力精進することは、必ずしも善行だとは捉えていません。むしろ「どうだこれだけ頑張ったんだ。なんかいいことあるだろう」と考えだすのがオチです。「絶対他力」の教えである浄土真宗では、そのような苦行を行うより、阿弥陀さまの呼び声(誰もを平等に救うとの誓い)を心から信じ、あの世の母のことは阿弥陀さまに全てお任せして、依頼、感謝の気持ちで念仏を称えるべきです。ですから何万回と称えようとたった1回心に思うだけだろうと一緒なのです。

 

いくつか例を挙げましたが、これはほんの一部です。皆さんには是非、浄土真宗門徒として正しい念仏を身につけて欲しいと思います。