2007.2.2 法話会

今年初めての法話会が開催されました。題名『白骨の御文章』蓮如上人の書かれた御文章の中でも、もっとも有名な白骨章のお心をお話させて頂きました。御文章とは、蓮如さまが、御門徒の方で出されたお手紙のことであります。

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ万歳の人身をうけたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや、われや先、人や先、今日とも知らず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすえの露よりもしげしといへり。さればあしたには紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは、六親眷族あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて野外におくりて夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

(現代語訳 うちのお寺は浄土真宗 双葉社より引用)
さて、人間の不安定な姿をつくづく考えてみますと、およそ、はかないものとは、始めから終わりまで、まぼろしのごとき一生です。いまだ一万歳の人がいたとは聞いたことがありません。一生は過ぎやすきものです。いまにいたってはだれが、100年の命を保つことができましょうか。私が先か他人が先か、今日とも明日ともわかりません。先に死ぬか後に死ぬかは、根本の雫や葉先の露のはかなさよりも、予測ができません。ですから、朝には元気な顔であっても、夕べには白骨となる身であります。いまにも無常の風が来たならば、すぐに眼は閉じ、ひとつの息は永遠に絶えてしまいます。紅顔もその桃や李のような美しさを失ってしまっては、家族親族が集まって嘆き悲しんでもなんの甲斐もありません。いつまでもそうはしていられないので、野辺の送りをして夜半の煙りとなってしまえば、ただ白骨が残るだけです。あわれといっても言葉では表現出来ません。人間のはかなさは、老いも幼きも定まりのない境界ですから、どの人も、まずもって後生の一大事に心を受けとめ、阿弥陀仏におまかせして、念仏申すべきであります。

現在、大変、話題になっている「千の風になって」を引用し、お話させて頂きました

私の墓石の前に立って 涙を流さないでください。

私はそこにはいません

眠ってなんかいません

私は1000の風になって 吹き抜けています

私はダイアモンドのように 雪の上で輝いています

私は陽の光になって 熟した穀物にふりそそいでいます

秋にはやさしい雨になります

朝の静けさのなかであなたが目覚めるとき

私はすばやい流れとなって駆け上がり

鳥たちを空でくるくると舞わせています

夜は星になり、私はそっと光っています

どうか、その墓石の前で泣かないでください

私はそこにはいません

私は死んでないのです

                   (訳 南風椎)

この誌は、大変、衝撃的な内容であります。日本人は、亡き方は、お墓の中で眠っていると思っている方が多いのではないでしょうか。しかし、浄土真宗の教えは、けっしてそうではありません。まさに、この詩の内容のとおり、お墓にはいらっしゃらないのです。浄土にうまれ、仏様となり、いつでも、この娑婆の世界に戻ってこられているのです。なぜ、浄土より、戻られるのでしょうか?もし、この娑婆に生きる者すべてが、毎日、幸せに何の悩みもなく迷いもなく、苦しみ悲しみがないのであれば、浄土で安らかになれるのかもしれませんが、娑婆の世界で苦しむ者を、見捨てることが出来ず、何とかして、救いたいとはたらき続けてくださっているのです。毎日毎日、24時間365日護り続け、見守ってくださるのです。