節分と仏教

節分は「季節が分かれる」の意味で、本来は立春、立夏、立秋、立冬に移る時は全て節分でした。ところが四季のうち、冬から春になる時を一年の境と考えられていたので、立春の前後の節分が年頭の行事として重んじられました。ですからいつの頃からか立春に限って節分というようになり、大晦日と同等の年越し行事が行われています。2月3日から4日にかけてが、その節分に当たります。

 節分の夜にする豆まきは、中国で古くから行われていた、追儺(ついな)と呼ばれる疫鬼を追い払う宮中の行事が、民間でも行われるようになったものだそうです。そこで行われていた豆まきが民間にも伝わり、節分の行事として定着したようです。

 なぜ鬼を追い払うのに豆をまくのでしょう。諸説ありますが、豆を「魔目」や「魔滅」と解釈し、豆をもって鬼の目をつぶし、魔を滅するとの説が有力でしょう。

 また豆をまくときには「鬼は外、福は内」と言うのが普通ですが、これには少々例外があるようです。

 東京の亀戸天神では「鬼は外」だけを言って「福は内」は言わないそうです。これは参拝者に福のみを持ち帰ってもらうためでしょう。その反対が成田山新勝寺で、ここでは「福は内」のみを連呼して「鬼は外」は言わないそうです。成田山は不動明王を祀った寺で、不動明王の慈悲の力で鬼も鬼でなくなるから「鬼は外」は言わないそうです。また雑司ヶ谷の鬼子母神では「鬼は内、福は内」と言うそうです。ここの祭神は鬼子母神ですから「鬼は外」と言えば祭神を追い出してしまうことになるそうです。さらに奈良県吉野山の蔵王堂においても「福は内、鬼も内」と言うそうで、こちらの場合は鬼を集めてお経の力で改心させようということだそうです。

 仏教徒である私たちの家庭においては「福は内、鬼も内」が良いかと思います。福が多いことは誰もが望むことですが「因果応報」というように、誰にでも容易く福が訪れる訳ではありません。やはりそれなりの行動をして、初めて福が訪れるのではないでしょうか。自分の普段の行動を省みず、御利益を求めることは慎みたいと思います。つまり「福は内」と言うからには普段から人に優しく接し、軽薄な言行を慎み、他人に施しをもたらす「布施」の心を持ちたいものです。

油断するといつでもすぐに煩悩が現れるのが私たち凡夫ですから、本当の鬼は私たちの心の中にいるのではないでしょうか。ですから「鬼も内」と言うとよいと思います。これは自分自身への戒めです。百八つの煩悩を持つ私たちはいつでも人を傷つけ、あざ笑い、ねたむ準備が出来ています。まさに想像上の怪物「鬼」と何ら変わりません。いくら修行を積もうとその鬼畜ぶりは何ら変わりません。ですから「鬼は外」と自分勝手に投げ出すのではなく、「自分はいつでも鬼になりえる者」と自覚しておく方がよいと思います。

参考文献 仏教語大辞典 小学館

     仏教とっておきの話 新潮社