分別をやめよう

来る9月24日から10月1日の一週間は「環境衛生週間」とされています。環境問題、とりわけ地球温暖化が叫ばれる中、エコライフ(環境に留意した生活)を実践することは、現代を生きる我々の責務です。エコロジーを心がける方法の一つにゴミのリサイクルを進める事があります。私たちの出したゴミが単に消却や、埋め立てされるのではなく、資源として活用されるという理想的な循環を目指すものです。

さてここまで真面目に述べてみましたが、題詞の「分別をやめよう」とはいったい何なのだ!反社会主義、身勝手な堕落生活をお寺の僧侶が勧めるとは何を考えているのだ!とお叱りを受けそうな危険な発言に思えます。いえいえ違うのです。この法話はあくまで仏教のお話。急に変な理念を訴えるはずがありません。誤解の原因は読み方にあります。ゴミの分別は「ぶんべつ」仏教における分別は「ふんべつ」と読みます。仏教読みでなくとも「ふんべつ」と読むこともあります。その場合「世間に関して、常識的な慎重な考慮、判断をすること」となります。これも理想的で正しい行いなので「やめよう」とは言えません。今回「やめよう」と言うのは仏教語としての「分別」です。

仏教語というものは、現代でも大変多くの言葉が使用されています。我々仏教徒が、永代に渡り使用してきた仏教語が、現代にも息づいている事は喜ばしいことなのですが、嘆くべきはその用途の変化です。つまり意味が大きく変わってしまった言葉が多いのです。思いつくだけでも「往生」「微妙」などがありますが、「分別」もその一つです。まあ上記二つは悪い意味に変化したので、嘆くのですが。

実は仏教において「分別」することは善くないことなのです。たとえば美しい人と醜い人を分別すれば、醜い人は嫌われる。頭のよい子と悪い子を分別すれば、悪い子は貶められる。分別は差別につながるから、仏教では分別をするな!と教えてきたのです。「良いもの、悪いものを同じものとして考えよ」と言っているのではありません。この世に存在するものには同じものは一つもなく、それぞれの独自の姿があるというのです。仏教では、個々のものを区別はするが、上下や優劣の差をつけることはしないのです。自分の価値判断で優劣をつけない。レッテルをはがして物事を見る。区別はするが差別はしない。これらを仏教の「空」の思想といいます。

阿弥陀さまは、皆さんをいつでも大いなる慈悲で包んでおられます。そのお慈悲は平等に降り注ぎ、善人悪人の区別をつけることはありません。お念仏の教えを頂く私たちは、仏さまの平等な眼で見守られているのです。