ありがとうの念仏

法徳寺の周辺には、豊かな自然と農村の風景が広がっています。なんて言っていたのは昔のこと。今や厚木インターチェンジのお陰で商業が発展し、ビルや倉庫が建ち並び、すっかり殺風景な風景となってしまいました。しかし古くからの檀家さんは今でも、わずかに残った畑で細々と農業を続け、野菜作りに精を出しています。お寺というのは有り難いものです、そんな貴重な地元産の野菜を分けて頂けるのです。“金銭的に得した”のではない無上の喜びがそれにはあります。精魂込め本業農家ならではの技術で作られた、それらの野菜は味が違います。まったくもって「ありがたい」ものです。

「ありがたい」という言葉は、「法華経」(残念ながら浄土真宗では拝読することはない)から広まった言葉だそうです。本来は「有ることが難い」「めったに会うことがない」の意味だったそうです。それが「めったにないことをしてくださって感激です」の意味から、感謝の言葉になったそうです。

浄土真宗では、教義を語る上で欠かせない言葉に、

「信心正因」(修行や称名ではなく、信じる心こそが往生をとげるもとです)

「称名報恩」(念仏を称えることは、呪文や願いを叶えるためでなく、感謝の気持ちで称えるのです)

の二文が重要とされています。これは、信心を重要とする浄土真宗の本質を表す言葉で、念仏を重視する浄土宗との違いが現れています。我が宗では念仏を称えることで往生が決定するのではなく、お念仏の教えを疑いなく信じたところで、往生が決定する考えです。そしてその後の称名は、お救い下さる仏恩に感謝する思いから称えるのです。ですからお念仏(南無阿弥陀仏)を直接「ありがとう」と訳す先生もおります。だからといって「往生が決定した」ことを喜び、感謝する事は、我々一般人には無理があります。ですから日々の暮らしの中での喜び、今の自分の身の幸せ、亡き人との思い出や仏さまの世界に旅立っていったこと、そしてお念仏の教えに出会えたことなどを思いながら、お念仏を称えるのがよいでしょう。

 またお念仏だけが、報恩(恩返しと言っても良いでしょう)ではありません。お経を拝読することや仏法を聴聞すること、すなわち、各種法会に参加する事自体が報恩になるのです。また世間や隣人に良い行いをしたり、自身に悪いことを戒める事も報恩になると言えます。

 「浄土真宗の教義」(経本の始めに載っている正式な教えの意義)はこのように定めています。

“南無阿弥陀仏のみ教えを信じ、必ず仏にならせていただく身の幸せを喜び、つねに報恩のおもいから世のため人のために生きる。”

自身の修行によって成仏するのでなく、仏さまにお任せする。そしてその身の幸せを喜び、周りの人々に尽くし感謝の気持ちで生きる。前記の檀家さん方には、先祖代々受け継いできたこの教えが染みこんでいるのでしょう。収穫物をお裾分けするその思いは、「浄土真宗の教義」に通じるものがあるように思います。

参考文献 やさしい安心論題の話 灘本愛慈著 本願寺出版

     仏教とっておきの話  ひろさちや著 新潮社