お彼岸法要

平成二十年三月二十日、二十一日の二日間、法徳寺本院にて、春のお彼岸法要を行いました。

当日は、春の嵐のごとく、雨風が強い中、たくさんのお参りの方が訪れました。

ここで、当日の法話をご紹介させていただきます。


  法 話
 
本日は彼岸法要です。彼岸とは“かの岸”と書きます。つまりお浄土のことを現します。彼岸に対して、私たちの住んでいるこの世界を“この岸”、といいます。彼岸法要とは、私たちがお浄土(彼岸)へ生まれていく道を聞かせていただくための法要です。決して先祖供養のための法要ではありません。しかし、ご先祖や、先にお亡くなりになった方のための法要といっても間違いではありません。実際に大切な人をなくされ、まだまだ悲しみの癒えない方もおられることでしょう。今日お参りされた皆さんも亡き方の為を想い、ご先祖さまの事を想い、お参りされている方がほとんどでしょう。何とか亡き方が喜ぶこと、なき方の為に何かをしてあげたいという気持ちもあることでしょう。
 昨年の十一月に、東京のお寺の法話会にお話に行ったときのお話です。いつも、法話会が終った後は庫裡でお茶をいただくのですが、一人の女性がお茶の用意をしてくださいました。その時、私にそっと小さな手紙をくださいました。そこには、失いてようやく知りぬ亡夫(つま)の居た 普通の日々の普通でなきことと、句が書かれていました。俳句では夫と書いて妻と読むそうです。後で住職さんに尋ねると、その女性さんは5年前旦那さんを亡くされ、「生前は一緒にいるのが当たり前で、感じることはなかったけれど、失ってはじめて、普通と想っていたことが普通でなかったことを、ようやく気付いた。生前夫の喜ぶことをしてやれなかったから、今私が何をしてやればいいのでしょうか」と、そのお寺の住職さんを訪ねてこられたそうです。ご住職は、亡き人は仏になられたのだから、亡き人の願いとは、仏の願いと同じ。だから、仏様の願いとはどうゆうものなのかをよく聞き、その願いに答える生き方をしていくことが、亡き方が一番お喜びになることだとおっしゃったそうです。それからというもの、その女性はご主人の死を通して、心から仏法を喜び、一生懸命お寺の行事や法要に参加されておられるそうです。何度もいいますが、この彼岸という法要は、私達が仏になられた方の願いに会わせていただくためのものです。
 亡き人の願いとは仏の願いと同じです。仏様の願いとは、慈悲ともいいますが、私の人生に安心と心強さを与えてくださる導きをいいます。先立った大切な方を、この私を導いて

くださる存在として手を合わせていくことはとても尊いことです。ですが、時に不幸が重なると、ご先祖が迷っているせいではと心配される方がおられます。しかし、ご先祖様が迷っていると考える前に、まず自分自身が仏様のみ教えを聞かせていただくことが大切です。確かな心のよりどころを持たないまま、自分の命の帰る場所を知らずに生きているならば、迷っているのは私自身なのでしょう。そんな私を心から案じ、願いをかけてくださる、仏様がいらっしゃることを聞かせていただくのが仏法なのです。その教えによって、私が亡き人を心配するより先に、私のほうが案ぜられ、見守られていることに気付くことができるのです。
 仏になられた人の願いの中には、私たちの帰る“いのちの故郷”に気付いて欲しいという願いもあります。皆さんも旅行をされたことがあることでしょう。旅行が楽しい旅になる一番の理由は、帰る我が家があるからです。人生をいう旅をしていく上で、自分の命の帰る場所を知らなければ、行く当てもわからず、帰る場所も知らず、ただたださまよいの人生になってしまいます。しかし阿弥陀様は、私たちは必ず彼岸(お浄土)という、いのちの故郷に生まれていくのだから、安心して精一杯生きてください、私に願いをかけてくださっているのです。仏になられた方が本当に喜ぶことは、亡き人が残してくださった仏縁を大切に、私にいのちの故郷が用意されていることを、仏となっていつでもそばにいることを、心強さとして、安心の中に、この人生を歩んでいく姿なのです。
 私は平成9年に祖母を亡くしました。幼い頃からおばあちゃん子で、いつも祖母の後をついて歩いていました。いろいろな事を教わり、たくさんの優しさをくれた祖母でした。小学生の頃は、よく祖母と一緒に畑に行き、畑仕事が終わると、取った野菜と一緒に私も猫車に乗せて、家まで連れて帰ってくれたのを覚えています。その帰り道、私を乗せた猫車を引きながら「順番通り死ねるかどうかわからんが、私が先に死にたいな。でも、もしそうなった時には悲しんじゃいけんよ。安心しとっていいんよ」祖母が教えてくれました。
祖母の通夜の晩、その言葉を思い出しました。それでも悲しくて悲しくて涙が止まりませんでした。しかし、祖母が教えてくれていたのは、仏様の教えでした。阿弥陀経というお経の中に「倶会一処」という教えがあります。必ずまた一処で会うことができるという意味です。人間の命を終えたものは、必ず仏としてお浄土へ生まれ、仏同士としてまた会うことができる。それまで先に仏となられた方はいつでも残されたものを心配し、慈しんでくださるという教えです。きっと祖母

は、「死別という別れがきても、悲しむことはない、必ずまた会える、いつでも仏となって傍にいるのだから、安心して精一杯生き抜いてくれよ」と言いたかったのだと思います。
 この仏様のハタラキを親鸞聖人は「しかればはよりして・・、のをしじたまふなり」とお示しくださいました。阿弥陀様は生きとし生けるすべてのものを救うために、千変万化し、ありとあらゆる姿をとって私を導いてくださる。そしていかなる人も阿弥陀如来さまと同じこの慈悲のハタラキをする仏さまにしてくださるのだと、教えてくださいました。仏になられた方は、いつでも私たちのことを思い、時には花になり風になり光となって、いつでも私の傍で勇気付けてくださっているのです。そして私の口からでる南無阿弥陀仏のお念仏も、千変万化する姿のひとつなのです。私の称えるお念仏は、まさに仏様からの呼び声なのです。幼い子どもが「お母さん、お母さん」と呼びますね。確かに呼んでいるのは子どもですが、呼ばせているのは母の愛なのです。「あなたのことを誰よりも心配していますよ、いつでも傍にいるのだよ、安心していいんだよ」という母の心が、子どもに「お母さん」と呼ばせているのです。それと同じです。南無阿弥陀仏のお念仏も、称えているのは私だけれども、称えせしめているのは、仏様のハタラキなのです。「私がいつでも傍にいる、悲しいときも嬉しいときも、一緒に悲しみ、一緒に喜んでいるのですよ、もしあなたが罪を犯すときには、それはそのまま私のこころの痛み、悲しみなのですよ。どうか私をたよりにしてください」という呼び声が南無阿弥陀仏なのです。
 最初に彼岸の法要は亡き方やご先祖のための法要でもあるといいました。それは決して供養の意味ではなく、彼岸という仏縁の中で私が仏法を聞き、心強さをいただいて生きていくことこそが、仏になられたかたの願いであり、一番お慶びになられることだからです。
 そうだったな、うれしいな、心強いなと思った時には、どうぞ南無阿弥陀仏とお念仏申してください。そのお念仏申す時はまさに仏になられた方のハタラキの中に包まれていると感じることができるのです。このお彼岸を縁として、またお念仏申す日暮を送らせていただきたいものです。
                                              (法徳寺別院 毛利祥夫)