お花を供える

先月はローソクの炎の意味について説明しました。そこで今月は仏さまを礼拝する際、欠かすことの出来ないお供えの一つである「花」について考えてみたいと思います。

 普段お墓参りや、お仏壇へのお供えとして忘れてはならないお花ですが、皆さんはどのような気持ちでお飾りをしていますか?習慣だからですか?供養のためですか?そう難しく考えないで下さい。「この美しく見る人誰もの心を和ませるお花を、あの人にも見てもらいたい」そんな気持ちで亡き方へ捧げる。それで良いのではないでしょうか。生前愛するあの人に花束を贈ったように、仏さまになっても敬愛、感謝の気持ちでお供えする。素晴らしいことだと思います。宗教的には、「心から信じている阿弥陀さまに対し、日ごろの感謝の気持ちを込めお供えする」これが模範解答でしょうが、「愛する気持ち、綺麗に飾りたい」これでよいと思います。

 ではどうして仏さまに向かって、お供えしないのでしょうか。仏さまのためにと思うならばお花はあちら向きに飾るはずです。それはお仏壇がお浄土の姿を模しているからです。極楽浄土の情景を伝える教典である阿弥陀経にも「池の蓮華は車輪のように大きく、青、黄、赤、白の蓮華はそれぞれの色を放ち、清らかな香りを放っている。阿弥陀仏の極楽浄土には、絶えず美しい音楽が流れ、地面は純金でできており、昼と夜に三回ずつ曼陀羅の花が降る」と書かれていることからも、内装が金色の仏壇が多く、鐘を鳴らし、花を供える意味が分かると思います。ですからお浄土の風景を見て取れるように、こちら向きにお供えするのです。

 そしてお花には、さらなる深い意味が込められています。それは人の心を和ませる、その可憐な美しさが仏さまのお慈悲と似ているからです。「慈悲=仏が衆生を思い、苦をのぞき楽を与えようとする心」まさにこの心は花が私たちに与える癒しにそっくりです。亡き方も皆さんの心を慰めるそんな方だったと思いますが、仏さまになった今も、お浄土から皆さんを見守り心を和ませて下さっていると思います。それをお花で表現しているのです。

 また限りあるいのちの間、精一杯輝いて咲いているお花(仏さまの心)は、私たちに模範を示しているのかも知れません。せっかく頂いた大事な限りあるいのちを無駄にせず、毎日を一生懸命生きてくれよ。今の毎日が輝ける日々なのだぞ。あなたの輝く姿は誰かが見ていてくれてそれが人に力を与えるのだぞ。皆さんの大事な人の遺志と似ているのではないでしょうか。

 ですから造花がお供えにふさわしくないことが分かるでしょう。限りあるいのちを表現できないのです。

毒花、トゲのある花、悪臭のする花もお浄土の情景を表すものとしてふさわしくありません。

 お花は備える前と後では意味が変わるということが、分かって頂けたでしょうか。今度お参りする際には是非思い出して頂きたいと思います。

                                                八千代聖苑 伊東知幸