泥中の蓮
↑先日咲いた法徳寺の蓮の花

 法徳寺仏教壮年会では、主に毎月22日に例会を行っています。それは法徳寺本堂での法話会が多いのですが、時にはバスを貸し切り、他のお寺にお参りに行くこともあります。先月の例会も横浜方面に行き、2カ寺のお寺をお参りしました。1カ寺目の私たち兄弟がお世話になった先生のお寺におじゃました際、大変立派な蓮の鉢植えを見せてもらいました。30センチはゆうにある大きな葉をたくさん持ち、いくつものつぼみが、今にも咲こうとしている上等な鉢植えです。当然鉢の底に穴はなく、泥の上に並々と水がくべられています。兄はその蓮の花を見てすっかり魅了され、法徳寺でも小型ながら蓮の鉢植えを近くのホームセンターで購入しました。そこで今回は蓮について述べてみたいと思います。

 蓮が仏教と関わりが深いことはご存じのことでしょう。どの宗派のお寺にお参りしても、本堂の彫刻には必ずと言っていいほど蓮が刻まれていますし、ご本尊が座像の場合には、蓮弁という蓮のつぼみの形の台座の上にお座りになっていることが多いです。境内に池があるお寺ならば、必ずと言っていいほど蓮を育てているようです。また浄土の風景を説明した「仏説阿弥陀経」の中にも「池の中には蓮華が咲いていて、その大きさは車の輪のようで、けだかい清らかな香りを放っている」とあります。

 どうして蓮が仏教では尊ばれるのでしょうか。それは蓮の生態に由来します。蓮は、泥の中で育ち泥水の中から茎が上昇しつぼみを水面に出し、泥に汚れることなく開花させます。その姿は泥にまみれた汚い池で、目を疑うほどの美しさを持ち人々を魅了します。その泥の中を人間生活ととらえ、そこでの生活を全うした後、泥の中から解脱し花を咲かせる(成仏する)と表現しているのです。

 仏教ではこの世に生きる私たちは、仏になる素質を持ちながらも煩悩に惑わされ、欲も多く、人をねたみ、悪口を言い、殺生をし続ける汚らわしい状態であると捉えています。そしてそんな煩悩具足の凡夫である私たちでも、お念仏の教えを頂くならば、毎日を世のため人のために生き、報恩感謝の生活をして、いのちの尽きたときには、極楽浄土に生まれ仏とならせて頂きます。

これは単に人間生活は泥の中のように煩悩にまみれた穢れた生活ではなく、念仏の教えに出会い仏にならせていただく身になるならば、真実の教えに目覚め、充実した実りある人生を歩むことができるということだと思います。これはまさに蓮にたとえると「レンコン」です。泥の中にあっても陰ながら努力し、いつのまにか泥中に実を実らせる。そして水面には世界を魅了する美しい花を咲かせます。すばらしく充実した人生、成仏を表現するにふさわしい植物といえます。

蓮の花が咲くことを成仏にたとえる事は良く聞くことですが、これを書いていて泥中のレンコンこそが、今の生活を充実したものにする教え「浄土真宗」に当てはまる比喩ではないかと気づきました。ただし法徳寺で購入した蓮にレンコンが実ることはないかもしれません。