10月法話

「悪人正機」

悪人正機とはなにか?
これを語るには恐れ多いと思うほど、多くの学者方が究明してきました。
今回は私が出来る限り簡単に、その真意を探ってみたいと思います。

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
(善人でさえも往生できるのだから、もちろん悪人も往生できる)  
                             親鸞聖人の弟子“唯円”著「歎異抄」より

これを読んだ方は「へ?逆でしょ」と思うはずです。
他の世界のどこの宗教書に「善人よりも悪人の方が救われる」などと書いてあるでしょうか。
実際この「歎異抄」は江戸時代の一時期、誤解を招くとして門外不出(拝読禁止)となった ことがあります。  
ここで注意してほしいのは、法律で罰せられるべき人を悪人と呼んではいけないことです。
では悪人とは誰のことか。 なんと浄土真宗の開祖親鸞聖人が、自身を悪人だと呼んだのです。
聖人は自分の事を、修行を成し遂げることもできず、煩悩は多く、他の命を頂かなければ生きて いけない
「悪人(凡夫)」と自覚したのです。つまり聖人ほどの方が悪人なのですから、我々 誰もが悪人と言えるのです。  
これは単なる謙遜で言っているのではなく、御自身を客観的に見つめ、煩悩は消えることなく、 他人に迷惑を
かけてばかりいる、動物の命を頂き、修行も成し遂げられない、こんな反省、懺悔、 自覚があるからこそ
「私こそが悪人」と言えたのでしょう。 そして悪人だからこそ救われたいと、心から仏にすがり、信心が養われる。
仏の為に善い行い(修行)など出来ない身であると思っているから、全てを仏さまに任せる。
仏の慈悲にすがる他ないと思い、より熱心に念仏の教えを聞く。正に理想的なの念仏者になるわけです。
 ところが善人と思い込んでいる人たちには、反省、懺悔、自覚などが無いのです。
ですから自分の悪事にも気付かずに過ごすことになり、修行をおこなえば仏になれると信じている。
だから仏にすがり、信心を持つ心が薄れるのです。  
だからと言って悪事を働くのが良いと言っているのではありません。 法律の悪事と宗教の悪事とは別の事。
それは毒が消えないうちに毒を勧めるようなものだと、 親鸞聖人も戒めています。
 阿弥陀さまとしても、自分を善人だと思い懺悔もせず、自ら仏に成れるものだと思い念仏も称えない人より、
自分は修行も出来ない悪人だと自覚し、仏にすがる他ないと信じる人を救いたいと思っているのです。
正に「できの悪い子ほどかわいいのが親心」だと言われているとおりです。  
唯円は逆説的に浄土真宗の真意を伝えたのです。 そのインパクトから浄土真宗の代名詞のようですが、要は、
仏さまに全てをゆだねる「他力」の教えに行き着くのです。
そして真意をひも解くキーワードは「反省、懺悔、自覚」だと思います


                                                            善林寺 八千代別院主管 伊東知幸