7月の法話

生死の苦海ほとりなし

ひさしくしづめるわれらをば

弥陀弘誓の船のみぞ

のせてかならずわたしける

                                        (親鸞聖人作 高僧和讃 龍樹讃)

”のせてかならずわたしける”

今回は、親鸞聖人が御示し下さいましたご和讃の一首を頂戴しました。

親鸞聖人は、阿弥陀如来様の救いを船に譬えておられます。私は「のせて」という言葉がこの和讃

の要といただいております。これは「弥陀弘誓の船」を受けての言葉なのですが、少し考えてみます

と、不自然な言葉です。船は、普通「自ら乗る」ものですから、「のりて」が日本語としては正しいので

す。「船に乗せられる」という言い方はしません。しかし、親鸞聖人が「のりて」ではなく「のせて」と表

されたのは、阿弥陀如来様の一方的なはたらきを表しております。

親鸞聖人は、如来様の船に乗ったおぼえはなかった、「乗せて下さい」とお願いしたおぼえもなかっ

たけれども、気づかされてみたら、既に、如来様の船に乗せられていた、なんと有り難いことかと感じ

られたことでありましょう、ですから「のせて」と示されるのです。

私が、如来様に、救ってもらおうとお願いする前に、既に、如来様の救いの中にいた、如来の船に乗

せていただいていたのです。そういう話しが浄土真宗です。如来様の先手の救いなのです。ところが

、私たちは、既に阿弥陀如来様の救いの船に乗せていただいていると聞かされても、どこか心配す

るのです。「本当にこの船は、浄土まで運んでくれるのだろうか」「もしかしたら、私だけは船に乗せて

いただいていないのではないか」と、じたばたするのです。 

5月の法話に、書かせていただいたように、先日、広島に行くご縁がございました。その際、羽田空

港より飛行機で行ったのですが、その日の天候は、雨でしかも風がありました。広島までは、約1時

間のフライトでしたが、その間、飛行機はかなりゆれまして、少々怖い思いをしました。飛行機に乗る

のは、いつでも緊張します。特に、離陸と着陸は心配します。「この飛行機大丈夫だろうか」と心配す

るんですね。しかし、考えてみますと、私は、飛行機に既に乗せていただいているのですから、私が

心配してもしょうがないのです。既に飛行機に、乗せていただいているんですから、その上で、じたば

たしてもしょうがない、飛行機と操縦士にお任せするしかないのです。それが、嫌なら降りるしかない

のです。飛行機に乗せていただいたら、後は操縦士さんの腕一つなんです。

そういうことを分かってはいても、やはり、心配するんですね。どこか私たちの不安が残るのは、人間

の作ったものに完全なものなどないからでしょう。人間の操縦士もいくら優秀でも、時に、失敗がある

かもしれません。

しかし、私たちの乗せていただいている船は、阿弥陀様の作って下さった船ですから、間違いがない

。しかも操縦士は阿弥陀如来様ですからね、運転にはミスがないのです。ですから「のせて必ず渡し

ける」とご和讃に御示し下さっているのです。

如来様は、親様ですから心配なんですね。浄土へ行けない私をどうしたら、迎えとることが出来るか

を考え、ご苦労して下さったのです。この苦しみに満ちた人生に、たった独りで生まれ、たった独りで

死んでいかねばならない私たちに、安心して人生の旅を続けさせ、必ず目的地であるお浄土に着け

るようにはたらいて下さっておりました。

 私たちは、お浄土が何処にあるのかも、行き方も逆立ちしたってわかりませんが、如来に任せた

ら、昼寝をしていても目的地に着くことが出来ます。阿弥陀如来様の船に任せたら、船からの景色を

楽しむことが出来るのです。もっと言いましたら、人生を楽しむことが出来るのです。私の乗った飛行

機も、私が上空からの景色を楽しみ、うとうとと寝ているうちに気がついてみたら、広島空港に無事

到着しておりました。有り難いことです。              

法徳寺 副住職 伊東 英幸