8月の法話

”親ははたらきとして存在する”

毎年7月の後半に、神奈川・静岡・山梨のお寺が主催する『お寺の林間学校』の行事にスタッフとし

て参加しています。去年は神奈川県の鎌倉で臨海学校、今年は、静岡県の富士市で2泊3日の林間

学校でした。

今年も、富士山を望む素晴らしい施設で、子供たちは元気に楽しく学んでくれたことと思います。

林間学校は、毎年、子供たちだけでなく、私も多くのことを学ぶ機会でもあります。

2日目の夕べの集いでのことでした。施設の方が、今回の会場周辺の自然環境の話しをしてくれまし

た。

「かっこうやほととぎすは、他の鳥の巣に卵を産み、その鳥に雛を育ててもらい、自分で子育てをし

ません。しかも、かっこうやホトトギスの雛は、他の雛を巣から追い出してしまいます。巣の親鳥は、

自分の子供だと思い、せっせと餌を運んであげますが、雛はそのうち成長して、自分よりもはるかに

大きな子供に育ちます。その時には、もう遅いのです。ですから、かっこうやホトトギスの親は、自分

が卵を生んで親になっても、子供の育て方を知らないのです。」

私はその話しを聞いて、何とも、おおちゃくな鳥がいたもんだと思いました。

真宗仏光寺派の僧侶、日野英宣さんの本に、「親は、はたらきとして存在するのです」という言葉が

ありましたが、子供を育てない、かっこうやホトトギスは、本当の意味で親になれないのですね。

浄土真宗は、法蔵菩薩の正覚から始まる宗教です。法蔵菩薩は、阿弥陀如来様の前身のお姿で

す。法蔵菩薩は大いなる誓願を立てたのです。「私は、生きとし生けるものすべてを浄土へ生まれさ

せ、仏にさせたい。その誓願がなしとげられない間は、阿弥陀如来様にはならない」という誓願です。

その法蔵菩薩が、既に阿弥陀如来様に成っていらっしゃって、「私に、心配ないよ、おまえは必ず浄

土へ生まれ、仏になるよ」と呼びけかけている言葉が「南無阿弥陀仏」です。つまり、私の心配事が

解決されたということなのです。

浄土真宗は、法蔵菩薩から始まるということが非常に大事なのです。なぜなら、阿弥陀如来様から

始まると、私と仏が離れてしまうのです。「阿弥陀如来様という偉い仏様がいて、私を救って下さ

る」と思ってしまうのです。

私が大変お世話になっている先生から、以前、私が法話をした中で「阿弥陀如来様という仏様がい

て、私を救って下さる」という表現について、ご指摘を受けたことがあります。私には、一体何が間

違いなのかわかりませんでしたが、先生は「これでは、私が救われても救われなくても、阿弥陀如来

様は存在する。阿弥陀如来様は、私を救うというはたらきでしか存在しないのだ。私のような救われ

がたいものがいるからこそ、阿弥陀如来様は存在するのだ」と言われ、納得しました。

「私がいてもいなくても、成り立ってしまうような阿弥陀如来様の話しをするな」と言われたのです。

阿弥陀如来様は、「私を救う」というはたらきでしか存在しないのです。法蔵菩薩は、衆生を救うた

めに大変なご苦労されたとお経にあります。私に「我が子よ」と呼びかけ「救われてくれよ」と、仏

に育てるためのご苦労をしてくださったのです。いわば、私がいなかったら苦労する必要はなかった

のです。

浄土真宗では、古来より、阿弥陀如来様を「親さま」と言い習わしてきました。「阿弥陀如来様という

仏様がいて、私を救って下さる」というのであれば、親子の関係ではなく、他人なのです。

それが、「親は、はたらきとして存在する」ということではないでしょうか。

法徳寺 副住職 伊東 英幸