平成11年(1999) 11月の法話

”たすけるぞ”

私は、葬儀・法事などを始める際、「ご一緒に、合掌し“なんまんだぶつ”とお念仏をお称えましょう、

そして、私とご一緒に礼拝を致します」と申し上げます。そう申しませんと、誰もお念仏を称えて下さ

らないからです。しかし、こう申し上げても、なかなかお念仏を称えて下さる方は少ないのが現状です。

称えない方は、宗派が違うという理由なのか、恥ずかしいのか、無宗教なのか分かりません。しかし

「私は浄土真宗の門徒です」とおっしゃる方でも、日常、合掌しお念仏を称える習慣がなければ、称え

て下さらないのです。それでも、一人でもご一緒に称えて下さる方がいらっしゃいますと、とても嬉しく

なります。

以前の私は、このような言い方はしませんでした。葬儀・法事にお参りされる方は、浄土真宗の方

ばかりではないというのがその理由でした。しかし、最近、あらためて、生きとし生けるものすべてが、

阿弥陀様の救いの目当てであったということに気づかされました。そうしますと、無宗教だという方も、

曹洞宗の方も、日蓮宗の方も、新興宗教の方も関係ないのです。みな共通な不安があるのです、

それは『死』ということです、この大問題に関係ない人はいないのです。

 私のお寺のあります厚木市は、神奈川県の中央に位置し、比較的、人口が増えている地域です。

ですから、今までまったくご縁のなかった方の葬儀・法事をお受けすることがございます。

 先日も富山県のご出身の方の葬儀を勤めさせていただきました。初めてのご縁でしたので、いつ

ものように、「ご一緒に…」と申し上げますと、ご参列者ほぼ全員で、声高らかに念仏をしてください

ました。それだけでとても嬉しくなりました。

 葬儀が終わり、火葬場から会場へ戻り、初七日法要をお勤めしました。最後、蓮如上人の

『白骨の御文章』の拝読の前に「皆さんとご一緒にお念仏を称えさせていただき、とても感動しま

した」と申しました。「それだけ、お念仏の声が聞こえない現実があるのです」と申し上げますと、

私の目の前に座っておられたおじいさんが、嬉しそうに頷き、お念仏を称えて下さったのです。

そうしましたら、私は何かこみ上げてきて、目頭が熱くなり、話しが出来なくなってしまったのです。

私は、時々あるのです、法話をしていて、ふと、目頭が熱くなるのです、これは、自分で自分の話

しに感動しているのではありません。私の口に出て下さる、『南無阿弥陀仏』のお念仏に感動する

のです。

 「今、私の口から、皆様の口からお念仏が出て下さるということが、私が浄土へ生まれることが

出来るということであり、助かったということです」と話しを続けたのですが、それ以上話しが出来

なくなってしまいました。

 正直申しまして、私は、初めてお会いした方ですから、亡くなった方に対し悲しんでいるのでは

なく、助かったことに感動し、嬉しくて涙が出てきたのです。初めて、真宗のお話しを聞かれた方

には、一体何を言っているのか理解できなかったと思います。しかし、そういうことなのです。

『南無阿弥陀仏』は、私の言葉ではないのです、仏様の言葉です、一番簡単に申し上げれば

「南無阿弥陀仏」とは「浄土へたすけるぞ」という仏様の言葉です。

初七日が終わり、食事を頂いておりますと、私の前に座られた中年の方が、「私も以前は、よく

お念仏を称えていましたが、こちらに出てきてしばらく忘れていました。でも、今回、とても考えさ

せれました」と話しをして下さいまして、とても有り難い思いが致しました。阿弥陀様は、私が、

忘れていても忘れて下さない仏様です、だから、いつでもどこでも、私の口にお念仏となって出て

下さるのです。私の口に出て下さるということは、いつでも阿弥陀如来様とご一緒なのです。自分

の耳に聞こえる声で「ナンマンダブツ」と称えるときに、目に見えなくてもちゃんと阿弥陀様がいっしょ

にいて下さっているのです、そして、いつも私を力づけて下さるのです。

              法徳寺 副住職 伊東 英幸