限りあるいのち(法徳寺だより第57号2000年9月より)

先日、私の愛用のメガネが壊れてしまいまして、大変困りました。

私の視力は、裸眼で0.1程、メガネなしでは生活が出来ないのです。

しかも、明日からは、お盆のお参りが始まるというのに…・。

メガネなんてあって当たり前と思っていたのが、無くなってみて初めてそ

の大切さに気付いたのです。

 その時に思ったのは、メガネだけではなく、自分のいのちも、健康も、

家族も、友人も、お金も無くなってみて、初めて有難味が分かるんだなと

いうことでした。そして、皆様方の有縁の方々も同じかもしれません。

亡くなられて、初めてその方の素晴らしさ、有難味が分かったという経験

をされた方も多いのではないでしょうか。それでは、もう遅いのですが、

人間とはそういう愚かな存在なのです。

 仏教は、この世に当たり前に存在するものなんて一つもないと教えてく

れています。そのことが本当に分かった方は、幸せになれます。

なぜなら、いつでも、そこに感謝の気持ちが起るからです。それに気付

かぬ人は、死ぬまで、不平・不満・愚痴ばかりで終わってしまいます。

そして、最後に死んでどこへいくのだろうかと大変な不安を抱えながら死

んでいくのです。

眞柄信雄師のお話

 8月15日のお盆法要には、今年も大変多くのご参詣を頂きありがとう

ございました。今年のお盆法要には、善林寺眞柄信雄住職にご講師を

お願いしました。ここに、師のお話の一部をご紹介いたします。

『この世に生まれたのは、当たり前ではないのですよね。しかもね、みん

な足の先から頭の上まで、みんなタダで頂いたんだよね。だからね一度

くらい感謝したっていいんじゃないですか。一度しかない人生、やり直し

のきかない人生です。しかも、いつお迎えがくるか分からないのです。

「人生には、いろんなご縁があるかもしれないけれども、乗り越えていき

なさいよ、自分の幸せばかりを追い求めるのではなく、他人の幸せにな

ることをしなさいよ」と、私の体の奥底にはね、先祖代々から受け継がれ

た、幸せになってほしい、どんな困難も乗り越えてほしいという願いが入

ったね遺伝子があるんじゃないですか。その遺伝子を喜ばすことをする

と、どんな困難を乗り越えていくような力が湧き起るのではないかな。

その遺伝子を喜ばすにはどうしたらいいか、お墓にお参りしたり、お寺

に来て、仏さまの話しを聞くことだと思いますね。皆さん、お参りすると気

持ちがいいでしょう。それはね、仏さまの教えを聞くからなんです。無限

大の仏さまの温かい心を聞くとね、辛いことがあっても立ち直るファイト

が湧いてくるんです。弱く、縁によっては何をしてしまうか、分からない危

なっかしい人間が、幸せになりたい、自分の人生を大事にしたいと思っ

たら、先祖の世界から、阿弥陀の世界から聞こえてくる、仏の声に耳を

傾けなきゃ駄目です。大体、人間に生まれさせてもらったということは、

仏さまの声を、聞くことの出来る耳を持たせてもらったということなので

すから。』

軌道修正

 先生の話しは、心に響くとても素晴らしいものでした。先生のお話をお

聞きして、改めてお参りの意義をいろいろ考えてみました。どんなに無

信心な方でも、最低、年に3回、春秋のお彼岸・お盆くらいは、お墓参

り、お寺参りをしていただきたいと思うのです。

 それは、先祖に感謝するという意味あいだけではなく、日頃の自分の

生活を振りかえり、人間として、本当に正しい道を歩んでいるかな、仏さ

まの願いに適った生活をしているかな、いのちを粗末にしていないかな

と考える時期ではないかと思うのです。もし、その道から外れていれば、

軌道修正をする。それが、お参りの大事な意義ではないかと思いまし

た。

法事を勤める意義

そこで、これに関連して、法事の意義についても、書かせていただきま

す。 私は、法事を勤めるにあたり、二つの大事な意義があると思うの

です。法事は、葬儀の後、四十九日法要、一周忌、三回忌……と続いて

いきますが、これは、単に仏事はそういうものだといって、ただ、習慣で

勤めてほしくないと思うのです。私は、亡き方に、悲しい報告をするので

はなく、素晴らしい報告が出来るような法事にして頂きたいのです。つま

り、素敵な報告が出来るこれに勝る、亡き方への報恩感謝はないので

す。そして、その法事に向けて、皆様方が日々精進していただきたいの

です。浄土でまた再開した時に、亡き方に、顔向けが出来ないような生

き方はしないようにしたものです。向こうに行った時に、「おまえさん、よく

先祖のお参りもしてくれたな、世の為、人の為によう尽くしてくれた、よく

がんばってくれたな。」そう言われたら最高だと思います。私の大変お世

話になっている先生は、浄土に参らせてもらった時に、親鸞聖人に顔向

けができないような生き方はするな、とよくおっしゃっていました。その日

々の精進が、良き方向に、人生を導いてくれるのです。それは、自分で

精進した結果ではなく、仏さまに導かれているということなのです。

お通夜は人間の卒業式

もう一つは、亡き方の死から学んでいただきたいということなのです。

皆様は、亡き方のお写真を前にして何をお感じになられますでしょうか。

私は、法事を勤めさせていただきますと、我々は、本質的に大変弱い存

在であり、私たちの体は機械ではなく、生身の存在なのだということを感

じます。いくら精進努力していても、病気にもなるし、壁にぶつかることが

あるということです。そして、やがて自分の死ぬ順番がやってくるというこ

とですよ、それに目を背けてはいけないのです。

 眞柄師は、「お通夜は人間の卒業式、お葬式はね仏さまの入学式」と

言われていました。

続けて、「人間に入学したら、必ず、卒業式が待っているんですね、やが

て、自分も死ぬ。それが嫌だ嫌だといって、死はタブーでなるべく考えな

いようにしているのは、卑怯だと思いますね。自分の命に対して、授かっ

たいのちに対して、本当に生ききったことにならないですよ。人間に入学

したときはね、みんな喜びますが、最近の卒業式、お通夜・葬儀は簡単

に済ます人が多くなりましたね。それは、本当に葬儀の意味が分からな

いからじゃないでしょうか。きちんとやってごらんなさいよ、今度は自分

の番の時にね、向こうさんがね、ようきちんとやってくれたと喜んでくれま

すよね。その卒業式で、仏の国に生まれれば最高だ、しかし、どうなる

か分からんのはね、可愛そうですよね。「こんちきしょう」と言って死ぬ人

もあるんですよね、終わりが来た時に何処へ行くのか分からなかったら

ね、安心して卒業できませんよね。」

火葬場

 真柄師のお話しに関連して、私は、火葬場に行くといつも思うことがあ

ります。それは、炉の中に棺を入れる際、係りの方が炉の扉は開けてく

れて、棺を入れるのですが、その時、いつも思うのは、丁度、人が一人

通れるくらいのトンネルのような作りの炉は、正に、この世とあの世をつ

なぐタイムトンネルのように思えるのです。しかし、誰も、その先がどうな

っているのか分からないのです。知りたい気がしますが、誰も戻ってきま

せんから分かりません。

「きっと素晴らしい世界だよ、だって、今だかつて、戻ってきた人がいな

いじゃないか」と上手いことを言った人がいますが、この先は、浄土なの

か、はたまた、地獄なのか。誰も分かりません。

自分

「自分」という言葉は、「自分が一番よく分かっている」という意味の言葉

ですね。しかし、本当に私たちは、自分のことを理解しているのでありま

しょうか。せいぜい、分かっているのは、生まれてから今日まで生きてき

た経験と思い出くらいでありまして、私は、一体何処からきて、何処へ行

こうとしているのか分かりません。自分の体だと言っている体も自由にな

りません、体の中で何が起こっているのか分からないのです。

医学のプロであるお医者さまですら、自分の体の中で何が起こっている

のか分からないと思います。

法事は亡き方との対話の場

 法事は亡き方の、死から学ぶ場であると申しましたが、別な言い方を

すれば、対話の場なのです。 

 山梨県甲府市にある浄恩寺、安藤住職のお話しをご紹介します、

『今日の法事に、皆様はどうして参ったのですか、誰が呼んだのです

か?。皆様は、喪主が法事があるから参ってくれと呼んだと思っていま

せんでしょうか、確かに事実はそうですが、真実は違うのです。真実は、

皆様の前にあるお写真の亡き方が、皆さんを呼ばれたんですよ。何の

為に皆さんを呼んだのでしょうか?それは、皆さんに話しをしたかったの

でしょうね、何を話したかったのか皆さんで考えてみて下さい。』とてもハ

ッとさせられる言葉でした。私は、このお話しを聞いて、法事は、仏さま

の話しを聞く場なんだなと改めて考えさせられました。何を聞くのかそれ

は、「おまえも死ぬぞ」と言うことだと思います。

今が大事

 先日、ご門徒の方の葬儀がございました。定年になって、さて、これか

ら人生を楽しもうかといった矢先の死だったそうです。奥様は、「今まで

何のために頑張ってきたのかわからない、これから、本当に夫婦で人生

を楽しもうと思ったのに、主人がかわいそう」とおっしゃっていました。

それを聞いて、楽しみも、先送りしていて駄目だと思いました。やりたい

ことを今やらねばならないなと、そうでなければ後悔します。つまり、生き

ているのは、今しかないということを思いました。そして、死と言う問題の

解決も、今しかないのです。明日というものはないのです。人生何が起

るかわからないのですから。

浄土は死の宣告?

 今年の春の彼岸会法要で、お医者さまである宮崎幸枝先生の話をお

聞きしました。先生の話しの中で、亡くなっていく患者さんとの対話を紹

介して下さっていましたね。「お浄土があってよかったね」「うん」「私も後

から必ず行きますからね」

「一緒にお念仏しましょう。南無阿弥陀仏…・・」という言葉がとても印象

に残りました。とても大きな反響でした。それから、先生のお話しを、何

度も法事などの席でご紹介しましたところ、とても大きな反響でした。

 しかし、一つ気付いたのは、確かに、何度も、仏様の話しを聞いたこと

がある方には、「お浄土があってよかったね」「そうだね、ありがたいね」

という言葉が言えますが、一度も仏さまの話しを聞いたことのない人に

言えるだろうか?

「お浄土があってよかったね」「どこがいいんですか!冗談じゃない!」と

思う方が多いのではないか。それは、「お浄土がある」ということが死の

宣告になってしまっているのです。お浄土があるということは、決して死

の宣告ではないのです。あなたは、死ぬのではなくて、永遠に生きるの

だということを意味しているのです。そして、また、再開出来るという意味

で、先生は患者さんと対話していらっしゃるのだと思います。

お墓にて

 先日、霊園のお墓にて心温まる光景に出会いました。

それは、ある男性の納骨法要でのこと、お墓の下には、予め数年前に

先立たれた奥様のお骨が納められていました。係りの方が、その横に

お骨を収め、「これで宜しいか、ご確認下さい」と言われました。そうしま

したら、ある方が、「あの〜、あの世で、夫婦仲良く暮らしていると思うの

で、お骨とお骨をくっつけてもらえませんか?」。他のお参りの方々から

どっと笑いが沸き起こりました。私もなんだか心温まり、とっても微笑ま

しい法事でした。

浄土はある 

 私たちは、浄土へ生まれるのです。人間が勝手に想像しているのでは

なくて、仏様がおっしゃることです。仏教は、お釈迦さまの言葉を信じる

宗教です。それを、お釈迦様もウソをいうかもしれないと思ったら、浄土

へは行けません。永遠に迷いの世界に留まるのです。

 ですから、こうして『法徳寺だより』を読んで下さっている方々は、現

在、「どうせ死んだら終わりだ」と思っているか方が多い中で、「どうも私

はそうじゃないと、浄土もあれば地獄もある」と、思っている方だと思い

ます。私は死ぬことが心配だと、そして、死んでどうなるのかが気にな

る、仏さまの教えを聞きたい、そして、本当の幸せな人生を歩みたいと

いう思いがあるからだと思います。私もその一人でありまして、以前は

「どうせ、この世だけだ、楽しく暮らせばそれでいいだ」と思っていたので

す、しかし、最近はどうしても思えなくなりました。

悲しいだけで終わっては駄目 

私の申し上げたかったことは、一貫して亡き方の「死」を無駄にしないで

下さいということです。葬儀・法事の場は、私たち生きている者の為にあ

ると言っも過言ではありません。「安心して生きていますか、安心して死

んでいけますか、あなたのいのちの古里は、阿弥陀如来様のお浄土な

のだよ」と、亡き方は、私の命の帰らせていただく世界に明かりを灯して

下さったのです。浄土真宗で一番大切な事は、生きているうちに、阿弥

陀如来様の救いを得ることです。それには、教えを聞く以外にはありま

せん。

お寺は死んでから用事のある場ではないのです。亡き方の一番の願い

は、残された皆様が 阿弥陀如来様の教えを聞くことです。そして 浄土

へ救われていくことなのです。

どうか、これからお寺に足をお運び下さい。

 

 法徳寺 副住職 伊東英幸