仏道を歩む

皆様、明けましておめでとうございます。いよいよ21世紀の幕開け、

皆様はどのような道を歩まれますか?

 毎年、12月8日に築地本願寺において、成道会というご法要がござい

ます。『成道会』とは、仏教の創始者であるお釈迦様が、お覚りを開か

れ、仏様となられた日を記念して毎年お勤めされている法要です。ここ

で、誤解のないように付け加えれば、「仏様と成られた」とは、イコール

「亡くなられた」という意味ではありません。本来、『仏』とは、『真実に目

覚められたお方』という意味でありますので、お釈迦様は、この日に真

実に目覚められた、真実を発見されたということであります。

しかし、私には、そのお覚りの内容を理解するのは、とても無理なので、

次のように解釈しております。

成道会とは、お釈迦様が、「私が安心して生き、安心していのち終わっ

ていける道は、阿弥陀如来様のお浄土だよ」とお覚りに成られた、発見

された日だと戴いております。そして、私にとっての成道会とは、その道

を、お釈迦様から聞かせていただく行事ではないかと思うのです。

お釈迦様と阿弥陀如来様

 ここで確認ですが、お釈迦様は、約2500年前にインドで生まれられ

た実在の人物で、12月8日にお覚りを開かれ仏と成られました。覚りを

開かれ、阿弥陀如来の救いを発見されたお釈迦様は、その内容を、説

法されました。それが、後にお弟子達によってお経として残されたので

す。つまり、阿弥陀如来様は、実在の人物ではなく、お経の中に登場す

る仏様です。お釈迦様は、お経の中に、「私がこの世に生まれた本当の

目的は、阿弥陀如来様の救いをこの世の人々に説く為である」とありま

す。

私の一番の願い

 ところが、私としては、早く浄土へ行きたいなんてとても思えません。

それよりも、長生きしたいという願いの方が大きいです(笑)。皆さんも同

じではないでしょうか?しかも、ただ長生きではなく健康でいつまでも若

々しく、女性であれば美しく、男性であれば逞しくいたい、それが、一番

の願いだと思います。 私は、最後の最後まで死にたくないという思いは

消えないと思います。だからこそ、いのち尽きるまで、安心して楽しく生

きたいという思いが強いのです。この思いは、どおしたら適うのでしょう

か?。私は、この思いを適えて下さる教えこそ、阿弥陀如来のお浄土へ

生まれる教えだと思うのです。

大往生

 世間では、長生きして亡くなられると、「あの方は大往生だった」と申し

ますが、あの言葉はウソです(笑)。「往生」とは「困り果てた」「亡くなっ

た」という意味ではなく、本来は「浄土へ往き生まれる」という仏教語で

す。ですから、往生に、大も中も小もありません(笑)。誤解の無いように

申しますが、長生きしたから、浄土へ行けるのはありません。若くして亡

くなられても浄土へいけます。長生きされても、案外地獄へ行っている方

も多いかもしれません。浄土へ行ける方法は、唯一、阿弥陀如来様の

はたらきによるのですから、阿弥陀如来様に任せる(信じる)ということ

がなければ、駄目でございます。

 そして、私たちのもう一つの願いは、最後は、ポックリ逝きたい。誰に

も迷惑かけたくない、惨めな思いはしたくない、長い間苦しみたくない。

その願いをかなえるべく、いわゆるポックリ寺というのが信仰を集めてい

ると聞きます。しかし、真相は分かりませんが、そんなに思い通りにはい

かず、その寺の住職が癌で長患いされているとも聞いたことがあります

確かに、ポックリ苦しみたくないという願いは、とても分かるし、私

も勿論そう願いたいところです。しかし、ポックリ何処へいくのかが見落

とされているようです。ポックリ地獄へ行ってしまったら、どうされるので

しょうか?それこそ、取り返しがつきません、後悔してももう手遅れです。

本当に安心ですか?

 これと同じように、皆さんの周りにこういう方、いらっしゃいませんか?

「私は、この前、もうお墓を購入したわ、仏壇も買ったわ、葬儀屋さんも

決めてきたわ、いいお寺さんも見つけたわ。これで安心だわ。」

 ほんとにそうでしょうか?お気持ちは、とても分かりますが、これって、

この方が亡くなって残された方に、とっての安心に過ぎないのではない

でしょうか?もしこれで、安心なら、お寺に住んでいる私にとっては、絶

対安心です。だって、先祖代々の墓地は、庭にあります。葬儀社の方と

の知り合いも多いし、仏壇もあるし、しかも、お寺ですから、お布施はい

らないし(笑)。でも、これだけでは本当の安心ではないのです。私たち

は、一体何処から来て、何処へいくのかという問題が抜けているじゃな

いですか?

関心がないのでしょうか?

 この問題について、現代人は、あまり関心がないように思われていま

すが、本当にそうでしょうか?私は、生きている以上、みんな関心がある

と思うのです。しかし、いざ考えても、答えは出ないし、分からないので

す。また、やはり自分がこの世をいつか去らねばならないなんて、考え

るのはやはり嫌ですから、自分の問題として考えたくないのです。そし

て、もう一つ、現代社会では、この問題を考える余裕がないのかもしれ

ません。経済的な問題、人間関係などなど、目の前にある悩みに対処す

るのが精一杯で、一体私たちは、死んで何処へいくのかという問題は後

回しになってしまうのでしょう。

道案内はどなたに? 

 確かに、私たちには、この問題を解決することは不可能です。死後の

世界なんて、誰も、逆立ちしても分かりません。それでは、分からなかっ

たらどうするか?答えは簡単です。分かった方に、道案内を頼めばいい

わけです。

 それが、どなたかと言えば、そのことをお覚りに成られた、お釈迦様に

道をお聞きすればいいわけです。しかし、私たちが、ただお経を読んで

もお釈迦様の真意を、理解するのはとても難しいものです。そこで、その

真意を研究し、生涯をささげて下さった親鸞聖人に、お聞きすればいい

のです。その親鸞聖人は、お釈迦様は何とお示し下さったかといえば、

阿弥陀如来様にお聞きしなさい。ということでした。それでは、お釈迦様

は、阿弥陀如来様の救いをどのようにお示し下さっておられるのかを、

親鸞聖人のお言葉より、探ってみたいと思います。

本願名号正定業

 この言葉は、皆様お馴染みの親鸞聖人がお作り下さいました、「帰命

無量寿如来」で始まる「正信偈」の中の一節です。お釈迦様がお示し下

さった阿弥陀如来様の救いを、親鸞聖人が、明瞭簡潔に示された一節

です。

 『本願』と申しますのは、阿弥陀様の前身であった法蔵菩薩の願いで

す。「生きとし生けるもの全てを、間違いなくお浄土に救いとりたい、も

し、その願いが成し遂げられない間は私は阿弥陀如来とは名のらない」

というものでした。しかし、その尊い願いを知らなかったら、私たちは安

心出来ない訳です。そこで、阿弥陀如来様は、名号となって私たちに知

らしめようとされました。ここで、『名号』とは南無阿弥陀仏の言葉です。

名という字は夕方の夕に口と書きます。つまり、夕方になって辺りが薄

暗くなってきた時、自分の存在を相手に知らせようと思ったら、口で「私

はここだよ」と言えばいいわけです。名号の号という字も大きな声で叫ぶ

という意味です。ですので、南無阿弥陀仏という言葉は、阿弥陀如来様

が私たちに向かって、「私はここにいるよ」と名のりをあげている言葉な

のです。親鸞聖人は、南無阿弥陀仏を「本願招喚の勅命」と示されまし

た。意味は、「すべての者を、必ず浄土へすくいとる願いは、私の長い長

い修行によって完成しましたよ、安心していいよ、私に任せなさいと阿弥

陀如来さまが私を招き喚ぶ勅命です。」とお示し下さっています。

 確かに、南無阿弥陀仏は、私が称え、私の口から出るのですが、私が

発信源ではないのです。阿弥陀様ご自身が発信源です。南無阿弥陀仏

と私の口に出てくるのは、仏様が私の元に現れている姿なのです。です

から、お釈迦様は、この世で初めて、南無阿弥陀仏の阿弥陀様自身の

名のりを聞かれた方だと、私は戴いております。そして、その名号こそ、

私が間違いなく浄土へ生まれることが出来る、はたらきなのです、という

のが本願名号の後の「正定業」という言葉の意味なのです。

南無阿弥陀仏の真意

 ところが、この南無阿弥陀仏は、みんなの口に称えられるのですが、

本当にその真意が分かっている方がどれだけおられるのか疑問です。

 南無阿弥陀仏は、「助けて下さい、阿弥陀様」ではありません。また、

「ご先祖様成仏して下さい、安らかに眠って下さい」という呪文でもない

のです。南無阿弥陀仏の真意はただ一つです。「おまえを間違いなく浄

土へすくいとる」という阿弥陀如来様の願いが込められた言葉なので

す。しかし、誤解されている方が多い為に、その願いが聞こえてこない

のです。ですから、南無阿弥陀仏と称えている方でも、願いを聞いてい

る方もあれば、聞いてない方もいるわけです。勿論、全ての者に、阿弥

陀如来様は、南無阿弥陀仏と呼びかけているのですが、聞いている方

のほうがむしろ数少ないようです。

南無阿弥陀仏の中にあるお心

 南無阿弥陀仏は、自分が称えているんだと思っていたら、いつまでも

聞こえてきません。そして、自分は、いつまでもお迎えなどこないと思っ

ていたら、いつまでも聞こえてきません。自分は悪い行いなんて一つもし

たことがない、地獄など堕ちるわけがないと思っていたら、聞こえてはき

ません。もう一つ、付け加えれば、南無阿弥陀仏のナンマンダブツの発

音を聞くのではないのです。南無阿弥陀仏の名号の中にある阿弥陀仏

のすべての者を浄土へ救いたいというお心(信心)を聞くのです。そのお

心を聞いて初めて安心が戴けるのです。

不思議

 それにしても南無阿弥陀仏は阿弥陀如来様のお言葉だなんて、とって

も不思議なことです。私は昔、このことを学んだ時、とってもびっくりした

ことをいまだに覚えています、その時は、とても信じられませんでした。

しかし、今では、阿弥陀如来様は、南無阿弥陀仏という言葉となって、私

の元に来て下さっているという思想は、本当に素晴らしいと思っていま

す。なぜかといえば、いつでも南無阿弥陀仏と称えるところに阿弥陀如

来様がいらっしゃるということですからね。

仏様はいつでも一緒

 中国の善導大師様のご著作の中に、次のようにお示し下さっておりま

す。「私たちが仏様に合掌礼拝する姿を、人は誰も見ていなくても、仏様

一人は見て下さっております。そして、南無阿弥陀仏とお念仏を称える

声を、人は誰も聞いていなくても、仏様一人は聞いて下さっています。

そして、仏様のことを心に思い浮かべる時、人は誰も、あなたの心はわ

からないけれども、仏様お一人は知っておられます。」という箇所があります。

 「仏様は、いつでも見てござる、聞いてござる、知ってござる」と、私ども

は、阿弥陀如来様と親密な関係の中に生活させていただいているので

す。ですから、皆様の先立っていかれた親しい方々も同じなのです。

南無阿弥陀仏と称えるここに仏様はいらっしゃるのです。

視点を変えてみましょう

 さて、お正月から、お互い、いつお迎えがくるか分かりませんよ、安心

していのち終わっていけますか?なんて話しは嫌な事です。でも、視点

を変えてみたら、私たちは今生きているのは当たり前ではないということ

なのです。自分のいのちも、健康も、家族も、友人も、お金も無くなって

みて、当たり前ではなかったな、と初めて有り難いことだったなと気が付

きます。

 お釈迦様は、この世に当たり前に存在するものなんて一つもない、み

んな有り難いものばかりだと教えてくれています。その教えに出会えた

方は、幸せになれる方です。なぜなら、いつでも、感謝の気持ちを持って

生きることが出来るからです。そして、何より、いつでも南無阿弥陀仏と

称えさせていただきながら、仏様に護られて、間違いなくお浄土へ生ま

れていく人生なのだと分かっておりますから、そこに喜びもあるのです。

 逆に、教えを聞かない人は、生きていることも当たり前、健康も当たり

前、お金も、仕事も当たり前、そこには、感謝の気持ちなど生まれては

きません、あるのは不平・不満と愚痴ばかりです。そして、健康なうちは

いいですが、いざ、自分の番がまわってきたとき、どんな思いになるので

しょうか。「いのち終わって何処へいくのか?」と大変な不安に陥ることで

しょう。折角、両親のお陰によってこの世に生まれさせてもらったのに、

ただ一人寂しく死んで行くだけです。人生、極論を言えば、最後はみん

な死んで行くのですから、そこには何か虚しさが感じられます。

たった一度の人生

 私たちは、たった一度の人生、やり直しのきかない人生を、今生きて

います。この成道会とは、年の暮れ12月に毎年お勤めされますが、今

年の自分の人生の有り様を反省し、新たに迎える年を、どのように生き

たらいいのかを、お釈迦さまが示唆して下さるご法要だと思います。21

世紀の幕開けです、あなたはこれからの、人生をどのような道を歩まれ

ますか?

 法徳寺 副住職 伊東 英幸