゛報恩感謝”

本堂の内陣は、現在、仏具を全部金メッキ加工に出している為に寂し

い状態になっています。内陣の中央には、お寺の主、阿弥陀如来様が

ご安置されておりますが、その仏様をお守りしている屋根のような形を

しているのを宮殿(くうでん)と申し、その下の部分を須弥壇(しゅみだ

ん)と申します。この前、初めてみたのですが、その須弥壇の裏には記

述があり、享保3年(1713年)に、当時の住職空恵師の時に、全門徒

が、報恩謝徳の為に建立したと書いてあります。今でも、宮殿・須弥壇

は、建立された当時のままを残しており、既に、300年の歳月が流れま

したので、だいぶ傷んでおります。以前、私としては、だいぶ傷んでいる

もので、新しくしたらどうだろうかと、仏具のカタログを見たところ宮殿と

須弥壇をセットで1000万近く、それはとても手が出ないと思ったことが

あったのです。それが、今から、およそ300年前、その当時の住職はじ

め、門徒の方々が、仏様のご恩に報い、仏様の尊いお徳に感謝する為

に建立したという記述にとても感動致しました。しばし、その場に立ちす

くみ、門徒数も数十件足らずであったろう当時のお寺の経済状態から

すれば、建立は、決して楽ではなかったはずです。全門徒の方々の大

変なご努力と惜しみない協力に感謝せずにはおれませんでした。この

宮殿・須弥壇は、いつまでも感謝の気持ちを忘れないように、大切に保

存しなければいけないと思いました。それにしても、当時の住職・門徒

の喜ぶ姿、お念仏申す姿を想像してみると、目頭が熱くなり、同時に、

身が引き締まる思いが致しました。

お寺は聞法の場

 浄土真宗のお寺は有り難いと思いました、葬儀・法事だけの場ではな

く、その当時も、門徒の方々の聞法の場であり、心のより処だったので

しょう。しかし、「今のお寺はどうかな?自分自身は?」と問いてみると、

報恩謝徳という言葉が、私に重くのしかかってきました。法要では、恩

徳讃を歌い、阿弥陀様へ報恩感謝を致しましょうと一緒にお念仏申させ

ていただいておりますが、私も含めて、お参りされている方々が、本当

に心からそういう気持ちになっているだろうかと考えさせられました。

 「仏様に、報恩感謝のお念仏を称えましょう」言うのか簡単ですけど、

実際は難しいことだと思います。

「感謝」という言葉は、「申しわけない、もったいないと感じる」ということ

です。「申しわけない」という気持ちがなかったら、ありがとうという感謝

の気持ちは出てこないのです。阿弥陀様の救いは、浄土に参りない私

が、浄土に参れるということです。「こんな私でいいんですか?いいんだ

よ。こんな罪深い者でいいんですか?いいんだよ。」この本願(阿弥陀

様の本当の願い)に出会ったら、「申しわけない」という気持ちが出てく

るのです。しかし、私は、それを素直に喜べません、第1、浄土へ早く行

きたいなんて思えません。

自分が一番可愛い

 この前、仲間の勉強会で、参加者の意見に「人間のいのちの重さは、

地球より重い」といいますが、ほんとにそうでしょうか?そのように思っ

ている人が何人いるでしょうか?もし思っているのなら、連日、ニュース

で見る残虐な事件など起こるわけがないのです。結局「自分のいのち

は、地球より重い」というのが正解じゃないだろうか。悲しいけど、ほん

とにそうだなって感じました、私も「自分が一番可愛いのです」。いざとな

ったら、自分の為なら何をするかわかりません。自分の欲望を満たす為

なら、人を蹴飛ばしてでも、なんでもするのです。その上、情けないほど

弱く、きたない心を持っているのが私の心です。しかし、都合のいいこと

に、心の中は誰にも見えませんから、何とか、周りの人々とも、上手くや

れています。

しかも、仏様の救いに、あぐらをかいてしまっています。仏様の願いに

出会ったら、このような願いに背く生き方しか出来ない私であると知ら

され、少しでも改めようという気持ちにならなければいけないと思いま

す。しかし、実際はどうかといえば、改めようと思っても、3日坊主です。

坊主も人間だからと開き直りたくないのですが、たぶん、一生このような

生活なのでしょう。

成人

 このところ、話題にのぼりました成人式。成人式というのは、「人に成

る」と書きますが、20歳になってほんとに人に成っている方が、一体何

人おられるのでしょうか。確かに、みんな姿・形は人のようです、しか

し、中身はどうなのでしょうか?人というのは、仏様に対し、自分の本当

の姿を知らされ、「申しわけがない、もったいない」という思いのある方

です、そして、仏様の願いに背く生き方しか出来ない自分を知っている

方です。

「地獄などないと思っている人に、地獄はあり。地獄はあると思っている

人に、地獄はない(作者不明)」という言葉があるのだそうです。

自分の本当の姿に気づかず、地獄などない、私は悪い事を一つもして

いないから、地獄になどいかないと思っている方にこそ、地獄があり。

自分の本当の姿を知らされ、自分は地獄にしか行きようのない者であ

るとの思いのある方は、実は地獄には行かないのである。なぜなら、そ

こに、仏様のお慈悲に感謝する気持ちが生まれ、仏様の願いに背く生

き方しか出来ない悲しい自分が、少しでも、欲望を押さようとはたらくか

らであるというように、私は解釈しております。

聴聞 

先ほど、浄土真宗のお寺は聞法の場であると書きました。すなわち、お

寺の本堂は仏様のお話しを聞かせていただく場でありますので、内陣

(阿弥陀様の御安置する場)よりも外陣(門信徒がお参りする場)が広く

なっているのです。仏様のお話しを聞くことを、「聴聞(ちょうもん)」とい

います。

なんで聴聞というのか、私は、あまり考えたこともなかったのですが、

「聴」と「聞」とは、同じきくでも意味が違うようです。

 私なりの解釈なのですが、「聴く」というのは、こちらから、聴きにいくと

いう意味です。お寺に法話を聴きに行くということも「聴く」です。法話で

は何が一番大事なのかといえば、お坊さんの話しではないです。「聴」

の字に「心」とありますように、お坊さんの口を通じて阿弥陀様のお心を

聴くということでなのです。阿弥陀様のお心を聞かなければ意味があり

ません。そして、阿弥陀様のお心を聴いてみれば、常に、阿弥陀様は、

私を呼び続けていてくれていた、私の元に南無阿弥陀仏という言葉とな

って来て下さっていたのです。「聞」の字をご覧になって下さい、門の中

にいても、どこにいても、自然に向こうから来て下さっている、そのお言

葉をそのまま聞くというのが、「聞」ということなのかなと思いました。

ですから、まずは、「聴く」ということが大事なのです、「聴く」がなかった

ら「聞」にはならないです。

「聴く」ということは、いわば、自分が求めようという心です。聴かなけれ

ば救われないと思い、自分がつかもう、しかし、阿弥陀様のお心を聴い

てみたら、私は、既に、救いの中にあったということが「聞」ということで

はないかと思います。ですから、「聞聴」ではなくやはり「聴聞」と書くの

でしょう。

でも、お救いをお聴かせいただいたら、既に阿弥陀様の救いの中にあ

ったということが、「聞」ということあり、ご信心を戴くということです。それ

を「聞即信」と申し、浄土真宗では大事な言葉であります。

浄土真宗は、この「聞」の宗教です。別な言い方をすれば、南無阿弥陀

仏の中にある阿弥陀様のお心を聞く宗教なんです。常に、阿弥陀様は

南無阿弥陀仏というお言葉となって、私たちの元に常に呼びかけられて

いるのです。「あなたは、私の救いの中にあるんですよ、早く気付きなさ

い」というのが、南無阿弥陀仏のよびかけなのです。そのよびかけを、

そのまま受け入れることを「聞」と言います。

私たちは、人から声をかけてもらうと嬉しさを感じませんか?それは、

「呼びかける」という行為は、相手を思いやる、心配する、気にかけてい

るからこそ出るものだからです。しかし、人間は気まぐれですから、あま

りいい譬えではないかもしれません、しかし、阿弥陀如来様には、気ま

ぐれはないのです。常に呼びかけておられます。

浄土

浄土に生まれるというのは、どういうことなのでしょうか。

「阿弥陀経」には「極楽では心身ともに、おおくの苦しみがなく、ただもろ

もろの楽しみをうけるのみ」とあります。阿弥陀経には、浄土は苦しみ

のない世界と説かれていますが、ただ、楽しい世界というのではありま

せん。浄土へ生まれ、仏様と成るということはどういうことなのでしょう

か。それは、自己中心でしか、考えられなかった自分がまったく違った

自分になってしまうのではないでしょうか、自己の完成といいますか。

今、私たちは、自分の幸せ以上に人様の幸せを願うということは無理で

しょう。それが、実現された世界なのです。そこで、本当に、仏様に助け

ていただいたというご恩に報いることになります、それが、この娑婆世

界に戻り、まだ、娑婆で苦しむ者を、浄土へ導き教化するはたらきで

す。それが、還相回向と言われる親鸞聖人独自の思想です。浄土へ

は、行きっぱなしではないのです。

 私たちは、何の為にこの世に生まれてきたのでしょうか。何のために

生きているのでしょうか。世の中には、死んでしまえば終わりだ、と考え

る人が大勢います。しかし、死は次の世界へ行くための通過点なので

す。「今日の宗教が来世を問題とせず、この世だけをしあわせにすごせ

ばよいというのであれば、何も宗教など無用である。宗教とは永遠のい

のちを与えるものである」(ある評論家の言葉)。

人生を四季に譬えて 

先日、ある方に、とある講演会でのお話しをお聞きしました。人づてです

し、講演された方の名前も不明なので、正確ではないことをご了承下さ

い。講演をされた方から、「人生は四季」に譬えることが出来るとお聞き

したそうです。

人は、0歳〜10代が春・20代〜40代が夏・50代〜60代は秋・70代

〜は冬なんだそうです。皆さんは、今どの季節ですか?

私はこれしかお聞きしなかったので、詳しいことは分かりませんが、な

んとなくこれだけでも、なるほどなと思います。

春は、入学式・入園式の季節です、いわば、人生の入学式の時期、み

んなから祝福されて、一人前になるまで親が育ててくれる期間なので

す。20代〜40代が夏というのも分かりますね、人生で一番活動する時

期でしょう。私は今、夏の季節を生きており、いつまでも、夏でいたいと

思いますが、それは無理なのです。自然に、春が来て、夏が来て、秋が

来て、冬が来る。そして、また、春来るのです。されに逆らうことは出来

ません。50代〜60代は秋です、そして、70代〜死は冬。

これもなんか納得してしまいました。

誰にも、必ず冬がやってくるのです。それが、自然なことで当たり前なの

です。急に冬にはなりませんが、いつか必ず冬は来るのです。

私は、「アリとキリギリスの話し」を思い出しました。この話しは、ご存知

のとおり、アリは、冬にそなえて毎日準備をしていたが、キリギリスは、

何の準備はしないで、いざ冬になってしまったら、困ってしまったという

話しですね。

皆さんは、人生の冬仕度してますか?自然界の冬は、急には来ません

から、秋頃から準備をしていれば、充分間に合うでしょう。しかし、人生

の冬は夏から突然、訪れることもあるのです。

人生の卒業式は、浄土の入学式

冬は、卒業式の季節でもありますよね。私たちも必ず人生の卒業があ

るのです。

でも、阿弥陀様を信じている方にとっては、冬の後はまた春が来るので

す。人生には卒業があるのだけれども、それで終わりではないです、黙

っていてもね、自然に春が来るのです。阿弥陀様が、春にして下さるの

です、今度はお浄土の春が来るのです。

阿弥陀様を信じていない方には、春は訪れないのです。人生の最後

は、寂しく真冬のままで終わってしまい、人生の終焉は寂しい真っ暗な

墓の中ですね。

 人の死の縁は無量でありますので、人は生まれながらにして死を背負

っています。しかし、いつ人生が終わっても恐れ驚くことなく、大丈夫だ

というだけの確かな人生の目的がほしいですよね。人生は、阿弥陀如

来に出会うためであり、浄土に生まれることが、人生の目的ではないか

と思います。

 法徳寺 副住職 伊東 英幸