阿弥陀様に見守られているとは?

  

 私は、最近のお通夜の法話に、必ず申し上げることがあります。

「お通夜は、愛する方との別れを悲しむ場ではなく、出遇いを喜ぶ場であってほしいと思います」。

 この意味は、お互い出遇えてたということは当たり前ではないからです。親は子供を選べませんし、

子も親を選べません。兄弟だって、友人だって、会社の同僚だって、誰も、なぜ、こうして出遇ってい

るのか解らないのです。出遇うと思って出遇えた訳ではないのですから、世の中の巡り合わせ組み

合わせの中で、ご縁があったとしかいいようがありません。また「ご縁」というのも、私たちには、計算

ができません、私たちの思慮を超えた不可思議なことです。よく、「素晴らしいご縁でした」という言葉

を聞きますが、私は、良いご縁も悪いご縁もないと思います。良いご縁になるか悪いご縁になるかは、

私たちの行い次第なのです。

 そして、私自身も、必ずこの世を去れねばならないのですから、そのお別れの時に、「あなたに遇え

て本当によかった、いいご縁でした、ありがとう、ご苦労様でした」と一人でも多くの方が、心から手を

合わせてくれたら嬉しいと思います。ですから、これが愛する方への最高の送る言葉だと思います。

人生の目的

 しかし、それには、お互いの日頃の行いが問われるのです。私は、人生の目的とは何か?を時に

考えることがあります。私は最近、その答は、自分の周りに「あなたに遇えて本当によかった」と言って

もらえる方を増やすことではないかと思うようになりました。それは、死んでからの話しではなくて、今、

日頃の行いが問われることなのです。しかし、それは、ややもすると独り善がりになってしまいますから、

充分に気を付ければなりません。

亡き方の願い

 そして、葬儀には「また、お浄土で遇いましょう。私も後から必ず参りますからね」と言ってお別れが

出来たら最高です。浄土真宗には、さようならという言葉はあわないのです。そして、浄土へ生まれ仏様

となるということは、安らかに眠ってしまうのではありません。いつも仏様となって、私たちを見守って下さって

いるのです。

 亡き方の一番の願いは、ご縁のあった者どおしがみんなで仲良く、協力しあって、少々のことではへこ

たれずに、この娑婆世界を乗り越えていってくれよということです。そして、阿弥陀如来様とも仲良くして

くれよ、お念仏申してくれよと私たちと仏様との仲をとりもって下っているのです。いつも、お念仏を称え

た時に、その願いを思い出してほしいと思います。

見守られているとは?

 仏様に、見守られているということをもう少し具体的にお話し致します。見守られているから、何をしても

いいというのではなく、逆に、亡き方を「悲しませる生き方は、しないようにしょう」とするのが残された者の

勤めです。いつも、お参りするときは、亡き方へ素敵な報告が出来るように、善い行いを心がけるという

ことも大事だと思います。その心がけを忘れずに、日々精進して過ごす方は、人生が自然に良き方向に

向かい幸せになれるのです。しかし、そこで気を付けなければならないことがあります。私たちは、何時の

間にか、良い方向に向かったのは、自分が精進したからだ、努力したからだと自分の手柄してしまうことです。

忘れないでいただきたいのは、仏様がいつも私たちを支え、寄り添って下さるからこそだということです。

それが、私が思う「仏様に見守られている」ということなのです。

 そして、お浄土に自分が参った時に、「よくお参りしてくれたね、いつも有り難く思っていたよ、ありがとうね」

と言って、再会が出来たら嬉しいじゃないですか。

子供の言葉に教えられた

 去年の築地本願寺での子供の一泊研修会に、長男の英明が参加致しました。仏様の教えについての講義

の時間でした、講師の先生が、子供たちに、「お釈迦様は何の為にこの世に生まれたのか知ってますか?」

という質問をしました。小学生には難解な質問です。答えは、阿弥陀如来様の教えを説くためというのが正解

なのですが、英明がハ〜イ!と手を挙げ、先生が指したのです。私としたら、何をいい出すのかヒヤヒヤして

いましたら、「みんなが仲良くするため」と答え、ビックリしました。なかなか鋭い答えに、親バカですが、感心して

しまいました。

 お釈迦様は、生きとし生けるものすべては、平等であり、みんなが仲良く生きることを一番の願いとされました。

民族や宗教、出身、性別、年齢、容姿、健康状態、経済状態、障害の有無など、自分と比べ、弱者を排除し、

差別してはならないと説かれました。阿弥陀如来様もすべての者の真の幸せを願い、それが、実現されたお浄土

へ救いとると願いはたらいて下さる仏様なのです。

アンパンマン

"それいけ!アンパンマン"という、幼児に大人気のアニメがあります。

主人公のアンパンマンは、顔があんぱんの形をした正義の味方なのです。私の子供も大好きで、よく一緒に

このアニメを見るのです。その中で、私がいつも印象に残る場面があります。それは、お腹が空いて元気が

ないお友達に、アンパンマンが自分の顔をちぎって「これを食べると元気が出るよ、美味しいよ、さあどうぞ」

と言って、お友達に食べさせてあげるのです。アンパンマンは、元気を取り戻し、美味しそうにあんぱんを

食べるお友達を見て、「よかったね」と嬉しそうに微笑むのです。

 ある時、"それいけ!アンパンマン"の原作者である、やなせたかしさんがテレビに出演されインタビューに

答えておられました。ある女性が、やなせさんへ質問しました「アンパンマンには、自分の顔をちぎってお友達

に食べさせてあげる場面がよく出てきますが、私はこれを初めて見た時に、正直とても驚いたのです。

先生の意図するところをお聞かせいただきたいのです」というのがありました。

その質問に、やなせさんは「人を助けるというのは、易しいことではない非常に大変なことであって、自分の

犠牲をはらわねば出来ないことを、子供たちに伝えたかったのです」と話しをされておりました。 

阿弥陀様のご苦労

私は、この話しをお聞きした時、阿弥陀如来様も私たちをお浄土に救いとるために、大変なご苦労をして

下さったことだろうと思いました。私たちを、救うことは容易なことではなかったはずです。しかも、如来様は

一つも条件を出しておられません、「おまえを救うことが私の喜びなのだ、一人でも浄土に生まれることが

出来ないうちは、私は阿弥陀とは名のらない」と誓って下さっておりました。そして、今既に、阿弥陀如来と

名のって下さっているということは、私がお浄土へ救われることに心配がなくなったということです。

優しさ

 先日も、子供と一緒にアンパンマンを見ていますと、子供が「アンパンマンは優しいんだね」と言いました。

私は「優しい」という言葉が大好きなのです。その意味は「他人の憂い、悲しみを理解してあげられる」という

ことだと思います。これが本当に出来るのは如来様でしょうが、人間にとってもその心が一番美しく大切なこと

ではないでしょうか、それが本当に実現された世界が阿弥陀如来様の浄土なのです。お互いがお互いを

認め合い、慈しみ合うことが出来る世界であります。そして、みんなでこの世の中も浄土のようにしていく努力

も必要なのです。

ある門信徒の方からの手紙

今年の初めに、千葉県にお住まいの門信徒の方より、有り難いお手紙を頂戴しました。ここに原文のまま

ご紹介致しますので、皆様で味わって頂きたいと思います。

 『法徳寺だより、いつも有り難く生きる力を戴いております。実は、私方では、この年末年始にかけて夫の

脳梗塞の再発で入院、入院三日目頃から顔つきも別人の如く、言動も異常となり治療途上にあるからとの

病院にご無理を言って、元旦に家に連れ帰りました。私にとっては、全く大きな賭けでしたが、幸い、家に

帰ったその時から精神状態が平常に戻り、食事も病院では点滴のみだったのが今や普通食になり、これで、

人間らしくなれた次第です。色々と悩み、介護の疲れもあって、私もパニック状態のお正月でしたが、この

幾日か、少し、現在の生活も落ち着いてまいりました。

 これも、私の人生のうちと思えるようになり、阿弥陀様が「周囲の人々のお陰を知り、人生の終わりを力強く

生きてみよ」と言われているような気がして、このあるがままの生活を大事に過ごすつもりです。苦労知らずの

人生の前期、中期を送って来た私に、後期に「苦」の味を教えて下さり、これで、充実した生涯になると思います。

たった一度の人生です。色々味わって満足して終わりたいと思いますと、段々と心がやすまって来ました。

とにかくヤッタ!!と言えるようになりたいです。私にも若い頃があったのですから、老病もあってよかった。』

 私たちは、何とかして「苦」を逃れたいと苦しんでいます。それを神仏に願い、逃れようとする方もいます。

しかし、逆に、あるがままを引き受けて生きる人もいます。それは、特別な強い人だけの生き方ではありません、

お念仏申し阿弥陀様に守られているからこそ、実現する生き方なのです。

法徳寺だよりお盆号より 副住職 伊東英幸