宗教は、必要なのでしょうか?

 

副住職 伊東英幸

私は、宗教とは、人生の基礎、土台に当たるものであり、無くてはならないものではないかと思います。しかし、特

定の宗教を信仰していない方でも、立派に生きている方もいるし、むしろ、宗教の名のもとに、犯罪を犯したり、世

界に目を向ければ、宗教の違いが、戦争の引き金にまでなっています。本当に宗教とは、生きていく上で必要なの

でしょうか?皆さんは、そのような疑問を持たれたことはありませんか?

もっと言えば、そのうち、お寺は必要なのか?という話しも出てきそうです。既に、冗談ではなく、現実の話かもしれ

ません。考えてみたら、お寺が、葬儀・法事の場だけだとしたら、別に、お寺などなくても、自宅でもいいし、会館で

もよいわけです。

ところが、この前、お参りにいらっしゃった方が、「私は、法徳寺さんに来ると、ホットしますよ」と私におっしゃって下

さいまして、とても救われた思いが致しました。お寺の行事に参加して、みんなで、お経を称えるのが、とても素晴

らしいし、お経を聞いているだけで、心が休まると言って下さる方がいらっしゃるのです。休まりすぎて、居眠りをさ

れる方もいらっしゃいますが…(笑)。

 

お寺は、何の為にあるの?

 

私は、その時、その方にとって、お寺は、必要とされているんだなと感じたのです。私たちが、人生において、何か

幸せを感じる時というのは、「自分は、必要とされているんだな」と感じる時ではないかと思います。

私は、その時に、ハッと気が付いたのです。それは、「寺は、生きている者を救う場なのだ」ということなのです。一

般的には、お寺は、死んだ方を救う場、供養する場だと思われているのではないでしょうか?

 

心配はいりません

 

もし、皆様の中で、「亡き方が、今、どうなっているか心配だ」と思われているとしたら、その必要はありません。もち

ろん、心配なのは自然なことですし、お気持ちは分かります。でも、「もう忘れなさい」と言っているのではなく、成仏

していないのではないかとか、迷っているのではないかと、心配するのはお止めになった方が宜しいと思います。

なぜなら、私たちは、誰もが、死後のことは分からないからです。分からないことを心配しても意味がありませ。そ

の心配事は、私たちの仕事ではないのです、阿弥陀如来様のお仕事なのです、如来様が引き受けた、任せておき

なさいとおっしゃってくれているわけです。その心配事は、丸ごと、如来様にお任せしてしまえばよいのです。ですか

ら、私たちが出来ることは、ただ、阿弥陀様へお礼させて頂く以外にはありません。

 

僧侶の仕事は何でしょうか?

 

 一般の方は、僧侶は、何か特別な能力があって、死者を極楽へと成仏されることが出来る。つまり、死者の魂

を、救うのが仕事だと思われているかもしれません。しかし、少なくとも、浄土真宗の僧侶の仕事は、生きている者

に安心を与えるのが、仕事だと私は思っています。生きている者を、救うというのは大袈裟ですが、安心して頂くの

が仕事なのです。

私には、亡き方を、浄土へ連れていくことも出来ませんし、皆さんを浄土へ導くなんてことも出来ません。阿弥陀如

来様の救いを、皆さんにお伝えすることしか出来ないのです。そして、私の話しを聞いて、少しでも安らいだ気持ち

になってもらったら、とても嬉しいことです。

 

阿弥陀様の心

 

私が、称えるお経や法話を聞いて、少しでも、皆さんの心が安らいだとしたら、それが、一番私にとっての喜びであ

ります。でも、もしそういう気持ちになって頂いても、私の話しが、素晴らしかったのではなくて、私の口を通じて、姿

形は、見えなくても、阿弥陀如来様の心が、皆さんの心に通じたということなのだと思います。皆さんもこうして、お

寺にお参り下さって、親しき方が、阿弥陀如来様のはたらきによって、浄土へ生まれていて、私もまた、参らせても

らえるんだなと、そういう有り難い気持ちになって下さったら、私としてはこれほど、嬉しいことはありません。

 

家の宗教、個人の宗教

 

最初に、宗教とは、私たちにとって必要なのか?と書きましたが、本当の宗教とは、我欲をかなえてもらうものでは

なく「私は、何を拠り所に生き、何を拠り所に命終わっていくのか」という個々の大問題の解決であります。ですか

ら、生きている者にとっては、関係ない方はおられません。しかし、本当の宗教とは、どういうものなのかを、ご存知

ない方が多いのではないかと思います。

私は、最近、気になることがあります。私の友人、知人に「あなたの宗教は何ですか?」と尋ねてみますと、大抵、

「私の家は浄土真宗です」とか、」「家は、日蓮宗です」という言い方をされるのです。「私は、浄土真宗です」とはお

っしゃらないのです。つまり、家の宗教であり、信仰なんですね。家の宗教と自分の宗教が違う場合もあります。中

でも、家は、浄土真宗でも、私は、無宗教だという人は多いのでしょう。

 

浄土真宗の信心

 

摂取の心光つねに照護したもう

さて、上記は、正信偈のお言葉ですが、この意味は、如来様の救いを信じ、お念仏を称える者をいつも如来様は、

護り、照らしてくださっているということです。しかし、信じていない方は、駄目なのです。如来さまの救いを聞いて、

如来様のお心を素直に頂き、喜びお念仏を申す方です。当たり前ですが、すべての者を護るではないです。如来

様の救いを信じない者は、除かれます。しかし、除かれるといっても、見捨てているのではありません、常に、如来

様は、「おまえを、浄土へ迎えるぞ、護っているぞ」とはたらきかけて下さっているのです。

しかし、仏様との出会いは、ご縁なのです。すべての方が、如来様に出会うとは限らないのです。家族の中でもそう

です、ご主人は信じているけど、奥様は信じてないとか、逆もあるでしょう。お寺も一緒です。お寺に生まれたからと

いって、すべての方が、如来様を信じているとは限りません。

 「浄土真宗の信心」というのは、「私は、何を拠り所に生き、命終わっていくのか」という大問題を解決する教えに

出会ったということです。「信心」とは、私の生まれるとっくの昔から、阿弥陀如来様の大きな願いの中に生かされ

ていたということに気づくということです。「ああもう、私は如来様に助けられていたんだな、見守られていたんだな」

ということに気付くということです。今まで、見守っていて下さっていたのに、知らなかった。何と申し訳ない、罪深い

ことであったかと気付くことです。浄土真宗は、この信心ということこそ、もっとも大事なことであります。

 

以前、ある布教使の先生が、次のような話しをされていました。その先生が若い頃、お説教に頼まれて、あるお

寺さんに伺ったのだそうです。そのお寺さんは、とっても大きな境内に、立派な本堂だったそうです。控え室に通さ

れ、門徒総代の方に、「とっても立派なお寺さんですね」と申し上げたところ、「お寺さん、お寺が立派かどうかは、

本堂が立派とか、檀家が多いとかではありませんよ。どれだけ多くの方がね、信心を得て阿弥陀如来様の救いを

喜んでいるかです。そういう意味では、このお寺は、本堂は立派かもしれませんが、まだまだでございますので、ど

うか一つ、宜しく御願いします」。と言われ、とっても恥ずかしい思いがしましたとおっしゃっていました。ずいぶん前

に聞いた話しなので、正確ではないかもしれませんが、私は、この話しを聞いた時、お寺の住職にとって、もっとも

大事なことだと思いました。

 

合掌する意味

 

仏様にお参りするときには、必ず右手と左手を静かに合わせて合掌し、両手にお念珠をかけます。神社みたい

に、パチンとたたきません。でも、なぜ、両手を合わせるのでしょうか?

私は、右手は、仏様、左手は、私たちと譬えることが出来ると思うのです。それが、合掌することにより、一緒にな

れるのです。仏教の生まれた、インドでは、右手は、清浄な手、左手は不浄な手とされています。皆さんも、仏様の

前に座り、手を合わすと、心が通じ合うような気がしませんでしょうか。姿形は見えなくても、仏様と心が通じ合うの

です。その理由は、浄土真宗では、必ず、お念仏を称えるからなのです。南無阿弥陀仏とは、仏さま自身が私たち

へ呼びかけている声なのです。そして、南無阿弥陀仏には、私たちを浄土へ救う力があるのです。南無阿弥陀仏

とは、「おまえを、いつも護っているぞ」という阿弥陀様の呼び声です。そして、私の側から申せば、南無阿弥陀仏と

称えさせていただくのは、「ありがとうございます」とお礼をさせて頂くことなのです。

 

最高の幸せ

 

今、こうして、仏様の前に座り、お念仏申させていただく身にさせて頂いているということは人生でこれほど、幸せな

ことはありません。私は、ずいぶん大袈裟なことを言っているように聞こえるかもしれませんが、決してそうではあり

ません。なぜ、幸せ者かと言えば、考えてみて下さい。私たちは、必ず、この世を卒業しなければなりません。自分

の順番は、まだまだ先だなんて、言ってられません、つい先日も、私の同級生が亡くなり、あたらめて、思い知らさ

れました。いつ、どうなるかなんて誰にも分かりません。

人生を、テレビゲームに譬えれば、必ずゲームオーバーはおとずれます。しかし、それを恐れることなく、その時に

「ああ、面白いゲームだったな。有りがたかったな。生まれてよかったな」としたいものです。終わりよければ、すべ

てよしというじゃないですか。

もちろん、楽しいことばかりが人生ではありません、孤独な時もあるし、辛いことや、悲しいことの方が多いことでし

ょう、近年の自殺者の激増は、それを物語っています。しかし、それに負けることなく乗り越える力を南無阿弥陀仏

は与えて下さいます。そして、生前に如来様に出会えた方は、必ず、素晴らしい人生であったと終われるのです。

なぜ、素晴らしい人生だったなと言えるかといえば、この人生で終わりではないからです。

 

万が一

 

浄土へ生まれれば、親しき者とまた出会える。そして、また、この娑婆に戻ってきて、苦しんでいる者や、悲しんで

いる者の側に帰り、救うはたらきをするのです。

万が一、地獄におちてしまったら、親しき者と出会えないし、この娑婆に戻ってくることも出来ません。それどころ

か、何千年何万年の間、苦しみにあうのです。私は、昔読んだ本に、「地獄に一番多いのは、誰かご存知です

か?」という質問が書いてありました。その答は、お坊さんだったのです。私は、それを読んで震え上がる思いがし

ました。

「地獄へおちる」と言っても、他人事でピンとこない方も多いはず、「私は、警察にお世話になったこともないし、人

に迷惑などかけて生きていない。誰の世話にもならず、立派に生きている」。そう思っている方は、ピンとこないの

は当然でしょう。だけども、胸を張って、私は、悪いことなど、一つもしたことがない。生き物を殺したことも一度もな

いし、人に迷惑をかけたこともないと、胸を張って言える方がいるのでしょうか?そういう方がいらっしゃるとしたら、

お目にかかりたいです。お互いの私たちの姿は、悪いことだと知りながら、やめられない。というのが、私たちの姿

ではないでしょうか。その姿を全部知った上で、おまえを救うと呼びかけて下さるのが如来様なのです。

 

坊主は地獄行き

 

ですから、いくら、袈裟を着て、身なりはお坊さんでも、仏様を信じなかったら駄目なのです。お坊さんは、いつのま

にか、如来さまではなくて、自分を信じるようになる。自分は、聖者であり、悪いことなどしていない、袈裟を着て、

修行をして、そして、自らの力で悟りを開く。しかし、仏様を信じていなければ、極楽へは行けないのです。うわべ

は、仏様を信じているように見えても駄目なのです。本当に、如来様を信じ、南無阿弥陀仏の力を信じないと駄目

なのです。

 

如来を信じてこの世を終わる

 

私たちは、いつゲームオーバーが来るかわかりません。しかし、如来様を信じていれば、何の心配もいりません。

その大問題は、既に、如来様にお任せしています、私の仕事ではありません。いつゲームオーバーになっても極楽

浄土であります。しかし、南無阿弥陀仏の力を信じなかったら、寂しいことです、どんなに、楽しい人生を送っても、

どんなにお金や地位や名誉を築いても、結局、虚しく滅びていくのです。有る方が言いました、「人間死んだらゴミ

になる」と、みんな最後は、死が待っているのですから、ゴミになる為に生きているのでしょうか?南無阿弥陀仏の

お念仏の教えを聞いている方は、極楽浄土へ参らせてもらうために生きているといえます。生きている間に、如来

様に出会えた方は、本当に幸せ者なのです。虚しくゴミなるのではなくて、「また、浄土で遇いましょう」と終わるので

す。私たち人生は、大きな南無阿弥陀仏の財産をいただいているのです。

お金が儲かるとか、病気が治るとか、うたい文句にしている宗教は沢山あります。そう言われると、私も心がぐらつ

きます、弱いものです。しかし、祈って病気が治るのであれば、お医者様はいりません。そういう弱い人間であれば

こそ、南無阿弥陀仏と働いてくださっているのです。

私は、いわば、南無阿弥陀仏の船に、今、乗せて頂いているのです。すべてを如来様の船にお任せし、眺めを楽

しもうと思っています。明日の事は、どうなるか分からないお互いですが、心配しても意味がありません。ただ、地

獄におとさない、必ず、浄土へと救うという如来の願いの中にあるんだということは、私に、本当の安らぎを与えて

下さいます。

 

報恩講

 

親鸞聖人は、承安三年(1173)に、この日本にご誕生されました。聖人により、南無阿弥陀仏の浄土の教えは、

その当時の僧俗共に、多大な影響を与えました。親鸞聖人は、九十年間のご生涯、ただ、ひたすら自らが救われ

た南無阿弥陀仏のみ教えを喜び、その教えを人々に伝えることに、全精力をついやされました。その間、大変なご

苦労、悲しい出来事も数多くございましたが、それを乗り越えられ、八十歳を過ぎて、尚、布教に衰えはありません

でした。しかし、ついに弘長ニ年(1262)十一月二十八日(太陽暦では、翌年一月十六日)九十歳のご生涯を静

かに閉じられ、浄土へ往生されました。その時の様子を「親鸞伝絵」は、「世間の事については、全く口にされず、

ただ阿弥陀如来のご恩の深いことばかりを申されておりました。声はといえば、お称名(南無阿弥陀仏)ばかりで、

そのほかのことは、全くございませんでした」と伝えています。毎日毎日、欲望にほんろうされ、浄土へ生まれること

が喜べない私にとって、親鸞聖人の生き様は、とても身が引き締まる思いがします。

毎年、法徳寺において、十月十日にお勤めしております報恩講は、親鸞聖人のご苦労を偲び、感謝する法要で

す。報恩講は、全国の浄土真宗の寺院で、聖人の命日の前後に、行われている大切なご法要です。

その親鸞聖人のみ教えは、私たちのご先祖様や親しき方のお陰により、今日まで、引き継がれ、こうして、お互い

お念仏を申させて頂く身にさせて頂いております。