除夜の鐘

法徳寺副住職 伊東知幸

大晦日の夜半から元旦にかけて、日本全国の各地の寺院で除夜の鐘が撞か

れます。その起源は不明ですが、除夜の鐘は我々凡夫の持つ百八の煩悩を

除去するために、百八を撞くのが古来の決りのようです。僧侶は鐘を撞くごと

に合掌し、余韻がおさまってから次を撞くので、百八の鐘を撞くのにたいてい

は一時間以上かかります。

あいにく法徳寺では住宅地にあるため近所迷惑なので撞くことはありません。

お参りの絶えない大きなお寺以外では実際、除夜の鐘を撞くことは稀でしょ

う。ただ近くの「神社」からはお参りの方が自由に撞く数にこだわらず、撞く音

が響いてきます。これは事実上、神仏一体となっている日本の宗教を物語っ

ていると思います。

話を元に戻します。百八の煩悩というのは人間が持っている煩悩を数えあげ

たものです。しかし何と何をもって百八とするかについては諸説あります。一

説によると、「百八」はインドの数の大きなことをいう表現です。したがって、単

に「多数の煩悩」の意味になるでしょう。

煩悩とは、われわれの心身を乱し、悩ませ、そして正しい判断を妨げる心の

働きを言います。貪欲(むさぼり)、瞋恚(いかり)、愚痴(おろかさ。仏教の教

えを知らないこと)の三つを「三毒」と呼び、根源的な煩悩とする。

大乗仏教では、このような煩悩を克服しよう(消し去ろう)とするのではなしに、

むしろ煩悩にこだわらないことを教えています。

そこで歎異抄第九段を思い出します。

ある晩、弟子の立場の唯円は、「念仏を唱えても喜びがわいてこないし、急い

で浄土に行きたいと思わない」と親鸞に打ち明けます。親鸞はこう答えました。

「それは同じく私も考えていたことだ。しかしそれほど喜べないからこそ、往生

が確かなものになったというべきではないか。喜びを押さえているのは自らの

煩悩のせいだ。仏の大慈悲は、煩悩を持ったわれら凡夫のためにこそ働いて

くださるのだ。」とおっしゃったといいます。

人として生きていく上で、煩悩を消し去ることは出来ない。むしろ煩悩がなくな

ったならば仏の大慈悲に包まれることはなく、往生は出来ないということでしょ

う。

除夜の鐘は凡夫の私達が、決して消し去ることの出来ない煩悩を「しっかり自

覚せよ」と教えてくれる、音色なのではないでしょうか。