読経について考える 副住職 伊東英幸

 

深い眠りにつくための方法

@ 出来るだけ毎日同じ時間に起き、朝起きたら、太陽の光を浴び、体内時計を調節する。

A カフェインを多く含む、お茶・コーヒーなどは夜7時以降とらないようにする。

B 風呂は食事の前に済ませる。

C 食事は、寝る2時間前までに済ませる。

D 寝る1時間前から部屋を暗くする。

E 布団にあお向けに寝る。水の上に浮いた状態を思い浮かべ、天井をぼんやりと一つの物に焦点を合わせぼん

  やりと眺め、目の筋肉をリラックスさせる。

F 大きく深呼吸をし、細長く吐き出すようにする。

G 自己暗示「手足がポカポカしてきた」と自己暗示をかける

Hよく眠れる為の物質が多く含まれる食材。

 豚肉・鶏肉・牛乳・卵・あさり・牡蠣・にんじん・レバー・春菊・レタス・鯖・海草

これは、先日テレビで放映しておりました健康番組を、何気なしにメモをしていたものです。睡眠はとっても重要な

だけに、健康番組にはよく取り上げられるテーマですね。果たして効果のほどは?私は、試してみたのですがあま

り効果はありませんでした。それよりも一番の方法は、ストレスを溜めない、悩まないということです。でも、それが

出来れば苦労はしません。

お経の効果

 私は、小学生の頃、怖いテレビなどを見てしまって眠れなくなってしまうことがありました。そんな時、父親が正信

偈を称えてくれたのを憶えています。子供ながらに、お経には、心を落ち着かせる作用があるのだと思いました。

帰命無量寿如来…と聞こえてくると、不思議に眠くなりました。前にも書きましたが、法話の途中、よく居眠りをされ

る方がいらっしゃいます。私は、それを見ては、一生懸命話しているのに、失礼な人だ!と腹立たしかったのです

が、最近は、仏様の前に座らせて頂き、仏様のお話しをお聞きすると心が落ち着くからなのだと、都合よく解釈す

るようにしました(笑)。決して、私の法話がつまらないのではないのです。仏様が、必ず、お救い下さるのですか

ら、有り難くなって安心します、「みんな地獄行き!」という話しであれば、居眠りなど出来ません

 この世を生き抜くことは、決して容易なことではありませんから、誰しもが多かれ少なかれ、悩みや苦しみを抱え

生きています。時には、心が疲れて眠れないなんてことは、誰もが経験されたことがあるでしょう。私なんて、些細

なことで悩み、眠れないなんてことはしょっちゅうです。そんな時は、まずは、楽しいことを考え(笑)、それから、お

念仏を称えることにしております。それでもだめなら、お経です(笑)。勿論、悩みが、お念仏で即座に消えるという

訳にはいきませんが、いくらか、心の疲れをほぐして下さいます。なぜなら、南無阿弥陀仏のお念仏は、阿弥陀様

から私への呼び声です。南無阿弥陀仏は、私の口を通じて「私は、いつもおまえの側を離れず、支えているぞ」と

いう阿弥陀様の呼び声であり、励ましのお言葉ですから、少し元気が出ます。

供養

 先日、ある布教使の先生から『供養』という言葉の意味について教えて頂きました。「供養」という言葉を私たちは

よく使いますが、「意味は?」と尋ねられたら皆さんは、どのようにお答えになられるでしょうか。解っている言葉な

ようですが、案外、明確が答が見当たりませんでした。 供養の『供』とは、「供える」です。これは、単純に「お供え

物」と考えて下さい。仏様にお参りする際には、お花や香などのお供え物を致します。

『養』とは、「養う」ですから、「お供えをして、ご先祖様を養ってあげよう」となります。しかし、その先生は「養われて

いるのは、どちらの方でしょうね?」とおっしゃったのです。私はそれを聞いて「なるほど」と思いました。

 例えば、皆さんは、毎朝のご仏壇へのお参り、お墓参りを致しますと、どんなお気持ちになられますか?少なくと

も、気分が悪くなったり、嫌な思いになる方はおられないと思います。お墓は、極端な言い方をすれば、ただの石で

す。石に手を合わせただけで、そのような気持ちになるのでしょうか?お墓や仏壇の前だけではありません、いつ

でも、どこでも、お念仏を称えた時いかがですか?その時に、どんな気持ちになるのか、私は、心が休まり、腹が

たっていたときでも、少しは心が平穏になります。「また、明日頑張ろう」と、元気が湧いてくる方もおられるでしょ

う。それってどうしてなんでしょうか?考えてみたら、それこそ、目には見えなくても、仏様から見守られているという

証拠ではないかと思うのです。つまり、養われているのは、こちらの方かなと思います。

 浄土真宗的な供養の意味は、「感謝」ということになるのだそうです。 私たちから、亡き方へ供養するという一方

的な意味では、「供養」とは、「ご先祖さまを養ってあげよう」となり、その立場からは感謝という気持ちは出てきませ

ん。しかし、考えてみたら、養われているのは自分の方だったなと気付けば、「供養させてもらおう、感謝させてもら

おう」という気持ちになると思います。本当の供養とは、「お陰さま、ありがとう」の感謝の意味を込めて、お供えさせ

ていただこうということなのです。仏様への供えには、高価なお花やお香よりも、お念仏を申しお経を称えることが

一番なのです。

お蔭様

 私は、毎日一生懸命生きて、自分を大切にして、人に優しくされている方が好きです。いわば、仏様の心をもった

方です。そういう方の顔は自然に美しいし、周りには、人が集まるのです。私もそう成りたいといつも思います。しか

し、願いばかりで現実には、なかなかそうなれません。でも、お念仏を称えた時、自分の行動に反省し、もう少し優

しくならねきゃなと思います。でも、また、つまらない些細なことで腹を立ててしまいますから、難しいものです。

 「お蔭様で」という言葉があります。とても美しい言葉ですよね、しかも、日本語にしかなく外国語には訳せないと

聞いたことがあります。私たちは、自分一人の力で生きているのではなく、目には見えなくとも、自分を支えてくれて

いる大きなはたらきへの感謝の気持ちを表す言葉です。

 私は、この前、本堂が雨漏りをするために、屋根裏に入ったことがありました。そこには、外観からは見ることが

できない、無数の柱やはりが張り巡らされていました。この柱一本一本が200年もの間、本堂を支えてくれていま

す。お蔭様だな〜と感じたことです。「お蔭様、ありがとう」私の今年の抱負です。

浄土真宗のお寺の本堂

 浄土真宗の本堂の作りは、内陣(阿弥陀様の御安置する場)よりも外陣(門信徒がお参りする場)が広くなってい

るのです。それは、本堂は、全門徒が一同にお参りし、仏様のお話しを聞かせていただく場であり、沢山の方がお

参りされる空間が必要なのです。先日も、京都のご本山、西本願寺の大修復の模様がテレビで放映されていまし

た。あの巨大建築は、建物ばかりが話題になっていますが、浄土真宗の権力を示したり、見栄で建てられたので

はないのです。あれだけの巨大な空間が必要だったのです。あれだけのスペースがなかったら、お参りの方々を

収容できなかったのです。南無阿弥陀仏一つで、浄土へ必ず生まれることが出来るという、親鸞聖人の教えに、そ

の当時、どれだけ多くの方々が救われ、生きる支えになり、生きる力になっていたかということを、あの建築は物語

っているのです。

平成の大修復

 現在、京都の浄土真宗本願寺派のご本山、西本願寺の御影堂が、平成の大修復を行っており、主に瓦の葺き

替えをしております。

 法徳寺でも、只今、本堂の屋根の葺き替え工事、並びに本堂各処のリホーム中です。この新聞が皆様の御手元

にお届けする頃には、終わっているかもしれません。現本堂が完成致しましたのが、昭和五十年でした。まだ、修

復するには、年数的には早いようですが、数年前から、雨漏りがするようになり修理の必要がでてきてしまいまし

た。

屋根の葺き替え工事中の本堂(平成13年12月)

 現本堂の建て替えの時の様子は、私もおぼろげながら覚えております。私の長男が、現在、小学校の2年生で

すが、丁度同じ位の歳でした。連日のように、職人さんが多数いらっしゃって、木の切れ端で遊んだり、一緒に遊ん

でもらいましたので、私にとっては、楽しい日々でありました。 私は、楽しい思い出しかありませんが、父である住

職はじめ、当時の世話人の方々、建築委員の方々にとっては大変な日々であったことでしょう。特に、門徒の数が

少ない法徳寺にとっては、本堂建築は大変なことなのです。

 ちなみに、全面的な建て替えのではなく、前の本堂の内陣や柱、梁などはそのまま残しての建築でありました。

前本堂は、寺の過去帳によると、寛政十二年(1800年)に建てられたようですから、約二百年前であります。その

本堂を建てられた時の住職は、第十三世祐慶師であります。この方は、静岡県蒲原にある浄土真宗本願寺派長

栄寺から来られた方だということが、最近分かりました。昨年、住職と二人で長栄寺さまに御邪魔し、過去帳を拝

見させて頂きました。そこには、祐慶師は、文政二年(1819年)に若くして、雷に打たれて往生されたことが記され

ておりました。

 そう言えば、思い出したことがあります。私の妻は、祐子と申しますが、妻と結婚する時に、父が、「うちの先祖に

は、「祐」と付く住職が何人もいる、特に、祐慶という方の代で、前の本堂は建築されたんだよ、祐子とはいい名前

だ」とよく言っていました。私は、そんなこと言われても「ただの偶然だよ」と気にも留めなかったのですが、最近は、

とても有り難く感じております。それだけ、お寺にとって、本堂とは、シンボルであり大切な建物です。

 このように、法徳寺にも、歴史があり開山から五百年の月日が流れました。以前は、昔のことなど、ほとんど興味

がなかったのですが、これからは、少し勉強しようかなと思います。しかし、考えてみたら、宗教と名のつくものは、

大変多いわけですが多くの宗教は、いつのまにか消滅してしまいます。親鸞聖人が私たちに教えて下さいました、

阿弥陀如来さまのお救いは八百五十年以上たった今でも、多くの人々の心の支えになっております。現在でも、多

くの門信徒の皆様が、法徳寺を支えて下さっていることに、大変感謝しております。

阿弥陀様がいらっしゃいますか?

 皆さんのご家庭にも、お寺の本堂と同じように阿弥陀様がご安置されていると思います。しかし、どんなに立派な

仏壇があっても、阿弥陀様がいつもいらっしゃらないご家庭もあります、逆に、仏壇はなくても、いつも阿弥陀様が

いらっしゃる家庭もあります。

 なぜなら阿弥陀様は、本来仏像や掛け軸に描かれた絵像ではないからです。礼拝の対象として、シンボルとして

ご安置されておりますが、阿弥陀如来様自身は、私たちに、南無阿弥陀仏のお念仏となって私の口に現れ出るの

です。ですから、仏壇はあっても、お念仏がないご家庭には、阿弥陀如来様はいつもいらっしゃらないことになりま

す。いつも、阿弥陀様がいらっしゃるご家庭であってほしいと思います。

回向

 読経の最後には、必ず、回向(えこう)と申しまして、「願以此功徳・平等施一切・同発菩提心・往生安楽国」と称え

ます。よくお聞きになられている方にとっては、これが聞こえてくると、そろそろ終わりだなの合図のようです。

 「回向」とは、「めぐりさしむける」という意味ですが、一般的には、僧侶がお経を称えた功徳を、仏さまにさしむけ

るという意味なようです。ですから、読経は必ず、仏様の方を向かい称えます。しかし、浄土真宗で回向という場合

は、逆な意味に使われます。阿弥陀如来様が私たちに、功徳を差し向けてくださるという意味です。

 ですから、浄土真宗以外の宗派では、「お願いします。読経したこの功徳をもって、平等にすべての人々に施し、

同じく悟りの世界に生まれたいと願う心を起こし、仏様の世界に生まれさせて下さい」となります。ここで願っている

のは、お経を称えている私たちです。しかし、どうでしょうか?正直言って、私にはこのような心は起りません。残念

なことですが、みんなが平等に、幸せになるように願うなどという心は起りません。いいとこ、自分の家族や友人知

人までです。すべての人々となると、知らない人や自分にとって嫌な奴も含まれます。

 お正月に、神社仏閣で手を合わしている方々の願いも同じではないでしょうか?多くの方の願いは、自分だけが

もしくは、自分の家族だけの幸せを願い、祈るのではないでしょうか?お参りされている方が、すべての人々の幸

せを願うのであれば、結構なことですが、そんなお人好しなどいないわけです。私は、お願いされる側の神様・仏様

は困っておられるのではないかと思います、なぜなら、仏様は、みんなの幸せを願っておられると思うからです。

 話しを戻しますが、ここで願いをたてているのは、実は、阿弥陀様なのです。浄土真宗はそのように解釈しており

ます。「私(阿弥陀如来様)は願う、私が長年の修行の上成就した功徳を、平等にすべての人々に南無阿弥陀仏と

いう呼び声となって施し、全ての人に有り難いと受け取る心を起こさせ、安楽国(極楽浄土)へ救われることを」とな

ります。阿弥陀如来様は、すべての生きとし生けるものの幸せを願っておられるのです。浄土真宗の読経は、称え

た功徳を仏様に差し向け、ご利益を頂くのではありません。称えているそのままが、仏様が私たちをお救いください

ます、おいわれが説かれているのですから、自分で称え、お聞かせいただくという立場です。また、読経とは、仏様

をほめたたえ感謝するというものです。でも、「読経しても、お経の意味がわからないのですが、それでもいいので

しょう?」というご質問を受けることがあります。私の答えは、意味は分からなくてもいいと思っています。先ほど、供

養というお話しを致しましたが、多くの方が、読経すると、心が休まり、有り難い気持ちになります。私は、それが大

切なのだと思うのです。そして、意味が知りたければ、読経の後には必ず法話がございます。また、法話会にご参

加頂いたり、本を読まれることをお薦めいたします。

『法徳寺だより 第62号 2002年1月 新年号より』

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