浄土真宗の葬儀でのタブー

 私はよく葬儀の導師を務めます。先日は近くの葬儀屋さんより依頼があって出掛けていきました。前日の通夜に

引き続き、翌日は葬儀となります。無事葬儀の読経を終え、火葬場への出棺の準備に取り掛かるとき、葬儀社の

方がおもむろに取り出したのは、金の装飾のついたカナヅチです。釘をポケットより取り出すと、棺の端に打ち付

けます。今度は黒い5cmほどの大きさの石を遺族に手渡し、まだはみ出ている釘の頭を叩くように促します。その

行為は棺の蓋を固定する為のものではありません。なにか習俗が盛りこまれています。遺族はこの儀式の意味も

分からぬまま次々と釘を叩いていきます。

上記は葬儀では見慣れた光景でしょう。しかし浄土真宗ではこの「釘打ち」はタブーとされています。浄土真宗の盛

んな地域ではこのような風習は考えられないでしょうが、わたしたちのこの地域ではこの儀式は半ば当然のごとく

行われています。無論我々も「釘打ち無用」と訴えてはいるのですが、告別式の次第に盛り込まれてしまっている

現状を打破するのは容易なことではありません。

ではなぜこの棺の蓋を固定する「釘打ち」が浄土真宗ではタブーなのでしょうか。

人は、自分の力ではどうすることも出来ない「望まざる出来事」が起こったり、またその恐れがあると、途端に神経

質になり、不安にかられてあれこれと形や行為にこだわるもののようです。「死」に伴う一連の葬儀はその最たるも

ので、実にさまざまな迷信や俗信があり、深く浸透しています。そのため、仏教の葬儀でありながら、み教えに逆行

するような俗習が行なわれ、それをまた、仏教だと思いこんでいる方も多いようです。「死は穢れ」という考え方から

起こった習俗は、死者に対しても容赦なく「冷たい仕打ち」を行いますその風習の一つが、棺を閉める際、石で釘を

打ちつける「釘打ち」です。これは石の「魔力」で死者の「霊」を封じこめ、災いを防ごうというものです。また再び舞

い戻って災いを起こさないで下さい。という意味もあるようです。この言い伝えが浄土真宗の教えに反するものだと

いうことは言うまでもありません。

昔は医学の知識もなく、伝染病が蔓延するのを最も恐れたといいます。つまり他人の死は自らの死を招く脅威に

感じたのでしょう。その気持ちが日本古来の俗信とあいまって故人への「冷たい仕打ち」となったのでしょうか。現

代となっては医学も発達し他人の死が、自分に及ぼす災いなどないことが分かっています。

仏教は、このような自己中心的な発想で死を忌み嫌うのではなく、死を厳粛に受け止め、人生無常をかみしめなが

ら「生死いづべき道」を説く教えです。迷信に惑わされず、身近な死を縁に自分自身の仏縁を深めてください。

法徳寺 副住職 伊東知幸