子供たちから学ぶ

先日東京のお寺の子供の一泊研修会の付き添いで京都に行ってまいり

ました。お寺の子供の研修だけあって本山へお参りするのが主な目的

です。といっても子供の参加者は8名ほどで大人の付き添いのほうが

多いくらいでした。どの子もお寺の子だけあって参拝中も熱心で、目を

輝かせて説明を聞いていました。本山の歴史の深さを肌で感じ取ってい

るようでした。宿に帰った後は話し合い法座をしました。

これは講師の先生が法話をした後、皆で車座になって、法話の感想や

自分の意見を話し合うことです。ここでも子供はとても熱心でした。

真剣に仏様についてどう思うか意見を言っていました。私は思いまし

た。大人とは何が違うのだろう。大人同士の法座もとても真剣なのです

が、どうしても現実の経験から素直に受け入れられない部分があるよう

です。子供にはそれがありませんでした。法話を疑いの心を持たず素直

に聞き入れていました。大人には疑いの心をなく仏様の教えを信ずるこ

とはとても難しいのです。

親鸞聖人は正信偈のなかで

弥陀仏本願念仏阿弥陀如来の本願による念仏は

邪見驕慢悪衆生→ 誤った考え、おごりの心を持つ人々にとって、

信楽受持甚以難 → これを信ずること、うけ保つことはとても難しい。

難中之難無過斯 → これほど難しいことは他にはない、というほど難             しいのです。

他力の心を得るには、疑いの心やおごり、偏った考えを捨てなければな

りません。わたしはそのような考えは一切ありませんといっても、仏様の

平等の心から見ると、それこそおごりの心なのだと、見破られてしまい

ます。また、仏の教えを信じ、疑うことのない「信心」を得るといっても、

浄土真宗では、その信心は、阿弥陀様からたまわったものであり、われ

われ凡夫の側からおこすものではありません。私たちがお称えする念

仏は、阿弥陀様の大慈悲を知り、それに感動し、感謝の気持ちから自

然に称える念仏です。決して疑いの心を晴らすための「行」ではありま

せん。親鸞聖人自身も疑いを晴らすことは、とても難しいとおっしゃった

のです。しかしそれだからこそ、如来の大悲は、迷える人々にそそがれ

ているのです。

仏様の教えを、疑いなく受け止めるには、お聴聞が大切です。なぜな

ら、疑いは、阿弥陀如来様のはたらきによって、疑いは、除かれるので

す。お寺の法話会に積極的に参加していただきたいと思います。

法徳寺 副住職 伊東知幸