永代経・降誕会法要

毎年五月にお勤めしております、『永代経法要』とはどういう主旨で勤めるご法要かと申しますと、一言で言えば、

お念仏のみ教えに出遇えたことを喜ぶ法要であります。それは、今、私たちが、お念仏のみ教えに出遇えていると

いうことは、その教えを、私たちの時代に、私たちの為に伝えて下さった方々がいらっしゃったからです。それが、

皆さんのご先祖方であり、親しき方でありますので、その方々に感謝する法要でもあります。法徳寺も有縁の方々

に支えれて、こうして、永代に存在し五百年以上の歴史を刻むことが出来ています。今、私たちは、仏さまの前に

座られて頂けていますが、そのみ教えが、私たちの時代で終わってしまっては、伝えて下さった方に申し訳ないこと

です。これからも、永代にわたり、この教えが続くように、生きている我々も、次の世代に継承する責任がありま

す。これが、もう一つの永代経法要の主旨です。これは、お寺だけが頑張るのには、限界がありますので、門信徒

の皆様お一人お一人が心がけて頂き、各ご家庭でしっかりと伝えて頂きたいと思います。

 

人生はテレビゲーム

 

さて、現在は、お寺とのご縁が出来る一番の機会は、やはり、葬儀であります。いわば、亡き方が、結びつけて下

さいます。阿弥陀様の教えに、出遇えて喜んで下さる方もいらっしゃいますが、そこには、愛する方との別れが伴な

います。それを、お釈迦様は、諸行無常と申したり、愛別離苦と申されました。そして、私たち、残された者も他人

事の話しではありません。

ある本を読んでいた時に、『人生は、テレビゲームのようなものです』という言葉に、ハッとさせられました。確かに、

人生は、テレビゲームに似ています、必ず、ゲームオーバーつまり『死』が来るからです。どんなに、嫌だと思って

も、無駄です、そのようにプログラムされているのですからしょうがないのです。また、次から次へと休む間もなく、

敵がやってきます、その困難を乗り越えていかないと次に進めないところなど、正に、人生のようです。しかし、どん

なに頑張っても、永遠にゲームを続けることは出来ず、必ず、ゲームオーバーがおとずれるのです。

逆に言えば、ゲームオーバーになるからゲームは面白いのですが、ゲームを進めるのが下手は人は、すぐにやら

れてしまいます。しかし、テレビゲームなら、リセットボタンとスタートボタンで、やり直しがきくのですが、我々の人生

はそうはいきません。たった一度の人生、ワンチャンスです。

 

ゲームオーバーになる前に

 

お釈迦様は、私たちに、何を問われているのでしょうか?私は、「皆さん方、人生のゲームオーバーになる前に、

やるべきことをやらねばなりませんよ」ということではないかと思います。

それは、生きている間に、好きなものを食べて,好きなことをして、おもしろ可笑しく後悔しないように生きねばなら

ないとか、一生懸命働いて、財産を築き上げようとか、そういう問題ではないのです。「一体、私のいのちは、何処

から来て、何処へ行くのか」という大問題を明らかにすることなのです。これが、本当の宗教の問題なのです。私の

いのちは、母親のお腹から来たというのでは答になりません。それでは、そのお母さんはどこから来たのか?その

またお母さんはどこから来たのでしょうか?その始めが、分かりません。そして、私たちの終わりも分からないので

す。やがて、自分の順番がやってきます。その時に、自分の親しき方々が待ってくれている極楽に参らせてもらえ

るのだと思って、卒業出来れば最高です。しかし、人生の中で、一度も考えてみたこともなければ、話しも聞いたこ

とがないというのであれば、どうなるのでしょうか。それこそ、自分の頭で考えてみても、どうなるものではありませ

ん。考えることは、ただ、不安ばかりで、行き先は、永遠の闇なのです。そして、卒業の時には、地位も名誉も財産

も何にも役立たないのです。むしろ、それに、人間は執着しますから苦しみになります。しかも、誰も一緒に行ってく

れない一人旅です。寄り添ってくれるのは、棺桶に入った、菊の花くらいです。

 

収骨の作法

 

皆さんは、火葬場での『お骨あげ』を経験されたことがあるでしょう。火葬場で、収骨するときには、作法があるので

す。係りの方が「一つのお骨を、二人ではさみあって骨壷にお入れ下さい」と説明されます。でも、なんで二人でや

るのか?と疑問を持たれたことはないでしょうか。私も知らなかったのですが、先日、質問されて慌てて、本で調べ

てみました。すると、まず、なぜ箸で納めるのか?それは、「この世からあの世へと、橋渡しをしてあげる」という意

味があるようです、「箸」と「橋」で字は違いますけど(笑)。それから、なぜ二人でやるのか?それは、残された者

が、仲良く、しっかりと生きていきますから、安心して浄土へ参って下さいという意味があるようです。皆さんは、仲

良くやってますか、しっかり生きてますか、亡き方に心配かけてませんか?

一番、亡き方が、安心され喜ばれるのは、お寺に参っていただいて、一緒にお経を称えて、仏様のお話しを聞くこ

とだと思います。いずれ浄土で再会をした時に、「よくお参りしてくれていたね、ありがとうね」といって感謝され再会

が出来たら、嬉しいですよね。

実際は、この世から、仏様の世界に橋渡しをして下さるのは、阿弥陀如来様であり、亡き方が、私たちと仏様のは

し渡しをして下さるのです。

 

どおしたら?

 

どおすれば、阿弥陀様はお救い下さるのでしょうか?一言で言えば、南無阿弥陀仏のお念仏を称えることです。難

しい修行がいるわけではないし、難しい経典の勉強をしたり、厳しい戒律を守るのではないのです。逆に、そのよう

にしなければ、浄土へはいけないと言われても、私には出来ません。しかし、ただ、意味も分からずに、称えていれ

ばいいのかといえばそうではありません。

ある本の中で、次のようなやりとりが紹介されていました。あるお寺に、これから、自殺をしょうという男性から電話

があったそうです。この方は、最後の願いとして、住職に尋ねられます。「南無阿弥陀仏と称えれば、極楽へ行ける

でしょうか?」そうすると住職が「だめです」ときっぱり言われる。それは、どうしてかといいますと、南無阿弥陀仏は

「助けてください」とこちらがお願いするものではなく、「助かってくれよ」という阿弥陀如来様の呼び声だからです。

この男性は、念仏を自分が称えた功徳で極楽へ行こうとしてします。しかし、それでは駄目なのです。南無阿弥陀

仏は、「つらかろうが、苦しいだろうが、どうか考え直してしっかりと生きておくれ」という如来様の言葉なのです。で

すから、南無阿弥陀仏を称えれば、極楽へ行けるのではなく、この称えるままが、いつも、私を救おうとはたらいて

下さる如来が、今、ここにいらっしゃるということなのです。ですから、私たちは、ただ、称えるままに、ありがたいこ

とだとお聞かせいただくのです。

その男性は、「何だか、大変な考え違いをしていたようです」と電話が切れ、最後の言葉の感じからは、自殺はとり

やめてくれたと確信し、ホッとしましたと住職は書いておられました。

今、私の口に、南無阿弥陀仏の念仏が、出て下さるというところが大変大事であります。「どおしたら?」という悩み

は不用なのです。如来様の救いが先にあるのですから、既に、如来の救いの中にあるのです。法話というのは、お

坊さんの話しを聞くのではなく、お坊さんの口を通じて、如来様が、直々に私たちに呼びかける、南無阿弥陀仏とい

う言葉を聞いて、ああ、有り難いことだなという心が、自分にわきおこったら、必ず、浄土へ参らせていただけるの

です。それは、法話を聞けば、誰でもわきおこるのです。なぜなら、それは、如来様が私たちの心にわきおこして下

さる心だからです。

 

この世は信じられない

 

しかし、そうは言っても、中には、おこらない方もおります、仏様を信じられない方です。そんな、目には見えないも

の、行ったことも浄土など信じられるわけがない。この目に見える現実の世界しか信じられないという思いは、誰も

が持つと思います。

私も以前はそう思っておりました。しかし、最近は、この世の方がよっぽど信じられないという思いがします。例え

ば、先日まで、元気で病気一つしないのが自慢だった方が、今日には、葬儀の依頼のお電話を頂くことは、決して

珍しいことではありません。そんな時、「えっ、信じられない!」と思います。また、あの人だけは、絶対に信頼出来

るとそう信じていた方に裏切られることもあります。政治も経済も信じられないし、信じられないような凶悪な事件は

おこるし、考えてみると、案外、この世の方が、よっぽど信じられないという思いがします。みなさん、この世の中

に、本当に信じられるものがあるでしょうか。その中で、一番信じられないのは、他でもない、自分自身ではないか

という思いがするのです。

本当に、この世に、信用できるものなどあるのだろうか?と絶望されたのが、親鸞聖人だったのです、それは、第

一に自分自身への絶望でした。いくら真面目に修行に努力しても、煩悩から離れることが出来ないご自身の心に

絶望されたのです。しかし、浄土宗の開祖法然上人に出遇われて、その思いは一転するのです。

この世に、決して絶望することはない、私を浄土へ救おうと、私がお願いする前から、既に、自分に、はたらき続け

る阿弥陀如来の救いに出遇われたからでした。それは、正に、私を絶対に裏切らないはたらきなのです。

 

一念喜愛心

 

この南無阿弥陀仏の呼び声に、お従いするというのを「一念喜愛心」というのです。いのちの拠り所、人生の基盤

を決めるという心です。その都度、その都度、都合がいいように、あっちの仏様、こちらの神様と宗教を利用するの

ではなく、一念というのは、二心がないということです。それが、本当の信心であります。よく、いろいろなお寺や神

社にお参りする方を信心深い方と申しますが、本当にそうでしょうか?如来の願いを聞いて、我が人生の拠り処を

決めた。此れ以外に、我のいのちの拠り処がないというのが信心であります。自らの拠り処が決まる、これは、何

ものにも代えがたい喜びではないでしょうか。

親鸞聖人は、自らのいのちの置き処が決まった、喜びの心を「一念喜愛心」と示され、これは、南無阿弥陀仏の本

当の意味を知ることによって、如来様よりおこさしめらるものであるので、この心がわきおこったならば、必ず、浄

土へ生まれることが出来ると示されたのです。

 

木 魚

 

私は、本を開く度に、新たな発見があります。お坊さんなのに、こんなことも知らなかったのかと、恥ずかしく思うこ

とがしばしばです。この前も、僧侶が、読経中、木魚をたたきますがその意味を初めて知りました。まあ、浄土真宗

ではやりませんので、今まで興味もなかったのです。まず、なぜ、木の魚と書くのでしょうか?木魚をよく見ると、木

に魚の鱗が彫ってあるんですね。なんで、こんな変な形なのだろうと前から疑問だけはありました。本によると、魚

は、昼夜、常に目を覚ましています、眠る魚もいるのかもしれませんが、少なくとも、常に目は開けてますよね。木

魚を、たたくことによって、人々を怠惰や惰眠から目を覚まさせるためなようです。分かりやすくいえば、魚を見習っ

て、私たちも、昼夜、目を覚まし、怠らずに修行に励みましょうということでしょうか。でも、あのポクポクという心地

よい響きで、寝てしまいそうですね(笑)。

 

なぜ、修行するの?

 

なぜ、修行なのかといえば、目的は、ただ一つです、心をきれいにし、仏の世界に生まれる為です。お寺ですと、掃

除が大事な修行の一つです。なぜ、掃除が大事なのかと言えば、掃除をすることにより、自分の心も掃除してくれ

るからなのです。掃除をしてキレイになって、嫌な思いをする方はおりません。しかし、親鸞聖人は、気付かれたの

です。いくら修行しても心をキレイにすることが出来るのだろうか?むしろ、自分の醜さ、愚かさ、欲望ばかりが見え

てきてしまう。それが、私たちを悩ます、煩悩なのです。それを執着心ともいいます。

 

執 着 心

 

ちょっと、執着心のお話しをします。例えば、あの人にお金を貸したとか、何々を貸してあげたということを私たち

は、何年たっても忘れないのです。しかし、自分が借りたのは、すぐに忘れてしまいます。それってどうしてなのでし

ょうか?この前、テレビを見ていましたら、作家の瀬戸内寂聴さんの人生相談という番組をやってまして、私も悩み

が多いので見ていました(笑)。視聴者からの相談内容は、「友人から、お金を貸してくれって言われて困っている

のだけれども?」というものでした。

瀬戸内さんは、「もし私が、そう言われたらね。基本的には、お金の貸し借りはしたくないから、きっちり断るけれど

も、もし、どうしても、その方が、可愛そうで助けてあげたいと思ったら、それは、貸してあげるんじゃなくて、差し上

げます。自分のポケットマネーの困らない範囲でね、あげてしまった方がいい。なまじ、返してもらえるからと思って

ね、無理なお金を貸してもね、返ってこないことが多いしね、その方とのね、友人関係も崩れてしまうからね。これ

はね、あなたにね、貸すんじゃなくてね、差し上げるといった方がいいんじゃないかしら、差し上げたんだからね、そ

れは、もう自分のものじゃないのだからね、返ってこなくもね、苦しいことはないわけだし、毎日毎日、いつ返ってく

るのかしらと悩むこともないしね(笑)」なるほどな、と思いました。これは、何を教えて下さっているのかといえば、

私たちの執着心なのです。皆さん、なぜ、私たちは、悩むのでしょうか?それは、私たちには、執着する心がある

からなのです。自分の家族、お金、友人、いのち……。「自分の○○」という言葉がついたものに、私たちは、執着

してしまうのです。自分にとっては、掛け替えのない大事なものばかりです、だから、それが失われた時、執着する

から苦しむのです。それが、煩悩の正体なのです。

例えば、ニュースで、まったく知らない幼いお子さんが亡くなられたとします。それを見て、可愛そうだなとは思うけ

れども、それを見たが為に、何日も涙にあけくれるということはないわけです。なぜなら、執着がないからです。そ

れが、自分の子供だとしたら、そうはいきません。自分の家族、掛け替えのない自分の子供、執着心一杯ですか

ら、それはもう大変な苦しみなのです。また、自分がこの世を卒業する時も同じです。なぜ、死ぬのが嫌なのか、そ

こに苦しみ悲しみを伴うのかといえば、やはり、いつまでも生きていたいという執着があるからなのです。それが、

私たちの姿なのです。ですから、私たちを苦しめるものの原因は、何かと言えば執着心なんですね。そして、この

執着とは、自分が一番かわいいという自己中心的な心でもあるのです、だから、周りの方との争いは絶えないので

す。しかし、仏様とはどういう方かといえば、この執着心がない方なのです。ですから、すべての者を平等に救うと

いう願いを持てるのです。私には、残念ながら自分以上に他人様を愛することは出来ません。なぜ、阿弥陀様は

手を差し伸べておられるのか?この前、ある本にこんなエピソードが載っておりました。皆さんは、観音様のご仏像

を見られたことがあると思います。観音様のご仏像は必ず、合掌をされています。お寺にお参りに来られたお子さ

んに「観音さまは、なぜ手を合わせているの?」と、ある住職さんが、質問されたというのです。そこで、その住職さ

んは、子供さんに、「あれは、誰に手を合わせているのか分かるかな?」「観音さまは、君を拝んでいるのだよ。観

音さまは、尊い心を坊やはもっているのだよ。早くそれに気付いておくれよ」「その尊い心とは、仏様を拝む心のこ

とだよ、観音さまに、拝まれるているボクが、メソメソ泣いたり、勉強を怠けられないね」と私は答させて頂きまし

た。というエピソードです。ここで、皆さんに質問致します、同じように、阿弥陀如来様の立像を拝見すると、手を差

し伸べて下さっておりますが、これは、誰に対してか考えてみて下さい。

 

立像と座像

 

今年の御正月の新年法要に、ご講師にお出で下さいました成田了恵先生は、座っている仏様と立っている仏様の

違いを話して下さいました。『浄土真宗は立っている仏様ですが、同じ阿弥陀如来様でも座っている仏様は浄土宗

です。鎌倉の大仏様も阿弥陀如来様でございます。なんで、同じ阿弥陀如来様なのに、立っていたり、座っていた

りするのかと申しますと、お経の言葉の解釈の違いです。座っている仏様には、こちらから、行かなければ救って

いただけない、向こうに行くというのは、修行をしてこの執着心を滅する為であります。煩悩を滅することが即ち、仏

になる悟りを開くということです。ですから、浄土のことを滅度というわけです。修行をして、煩悩を滅し、戒律を守ら

ねばいけないので、戒名を頂くのです。戒律とは、一番基本的な戒律が、五戒です。しかし、浄土真宗は、そうでは

ないのです。阿弥陀如来様は、私たちが行くのではなくて、迎えに来て下さるのです。修行も出来ない、煩悩もなく

せない、戒律も何一つ守れない私たちの姿をご覧になり、私の方からおまえの方に出向いて救うと願いを立ててく

ださったのです』とお話し下さいました。その出向いて下さるはたらきが、今、私の口に『南無阿弥陀仏』となって現

れて下さっております。

 

いつも寄り添い

 

その成田先生に、先日ある会議でお会いしました。その会議の締めくくりの挨拶で、『私はいつも元気にしておりま

すが、生身の人間ですからいろいろあります。忙しかったり、辛かったりすると、シンドイなと思う時があります。そ

んな時、お念仏申させて頂きますと、私に寄り添い、一緒にシンドイ思いをして下さっているんだな、一人じゃないん

だと思い直す、そうすると、不思議とまた頑張れます』と話され、それを聞いた私も元気を頂きました。

先日、福井からお出でになられた方も、葬儀の最後の挨拶で、「これからも、仏弟子として、明るくほがらかに、浄

土への道を歩んで生きましょう」と締めくくられ、阿弥陀如来様の救いを簡潔に述べられ、素晴らしい言葉だなと感

動致しました。いつも、如来様から願われている私たちです。

 

降誕会法要

 

最後に、浄土真宗は、開祖である親鸞聖人が、師匠法然上人のお示し下さいました阿弥陀如来様のみ教えを、よ

り分かりやすく体系づけてお示しになられたことに始まります。親鸞聖人は、自分は、あくまでも、法然上人の弟子

であり、その教えをひろめされたにすぎないという謙虚な立場をとられています。結果的に、親鸞聖人を慕い、多く

の念仏者が育ち、後に、浄土真宗という宗派が出来ていきますが、ご自身では、宗派を作るというお気持ちはなか

ったようです。90年のご生涯で、お寺も一つも建立されませんでした。親鸞聖人の願いは、ただ一つ、自分が出遇

った南無阿弥陀仏のみ教えを、一人でも多くの方に出遇ってもらいたい、同じ喜びを分かち合いたいということでし

た。

浄土真宗のご仏壇では、阿弥陀如来様を真中にご安置し、右側は親鸞聖人のお姿をご安置致します。今、こうし

て私たちが、阿弥陀如来様に出遇うことが出来たのは、さまざまなご縁の賜物でありますが、その阿弥陀如来様を

私たちの身近な存在にして下さいましたのは、親鸞聖人であります。私は、阿弥陀如来様が、親鸞聖人というお姿

をとり、この八百五十年前の日本にあらわれて下さったと頂いております。ですから、法徳寺では、永代経法要と、

降誕会法要(親鸞聖人の誕生を祝い感謝する法要)を一緒にお勤めしております。どうか、一人でも多くの方のご

参詣をお待ち申し上げております。  

副住職 伊東英幸 法徳寺だより63号より