お念仏を称えるとは?

 

法徳寺副住職 伊東知幸

南無阿弥陀仏を称えれば、誰でも阿弥陀仏によって救われるという他力念仏の教え。言うまでもなく、我々浄土真宗の教えの根本であります。しかしここまでは浄土宗の開祖である法然上人の教えと同じです。師弟関係にあった法然と親鸞は教えの根本を共有するものとなっていますが、親鸞は独自に絶対他力の教えをひろめたのでした。

法然の教えは、鎌倉時代以前の仏教各派の教えとは随分違っていました。厳しい戒律に縛られ寺にこもり、もっぱら権力者に取り入っていたそれまでの僧侶たちとは逆に、男女貴賤の区別なく教えを説く人が法然でした。しかも妻帯をよしとし、在家であろうと出家であろうと、南無阿弥陀仏というたった六文字の念仏さえ称えていれば、誰でも極楽に往生できるという教えでした。しかし法然の念仏教団に加えられる圧力は日増しにひどくなり、とうとう法然、親鸞は離ればなれに流罪にされます。そして親鸞は法然の教えをさらに進め、たとえ念仏を称えなくても阿弥陀仏への信心だけで救われるとしたのです。これをまとめて法然の教えは念仏為本、親鸞の教えは信心為本といいます。

 ここでクイズです。我々が口にするこの念仏を称える者はいったいだれでしょう。

それは自分にきまってる。そう思うでしょう。そう思うならば、そこにはまだ自力が残っている、完全なる他力ではないということになります。それを親鸞は念仏を称えるのは自分ではなくて阿弥陀仏であるといいました。ありがたい念仏を称えるという行為さえも、自分のものではないという徹底した他力信仰を教えたのです。

阿弥陀仏はまたの名を無量寿如来、あるいは無量光仏ともいいます。これは真理の光と命をさんさんと尽きることなく降り注いでくれる仏様という意味です。仏の命というのは仏の智慧と慈悲ということです。智慧は真理の教え。どこまでいっても正しい教えです。慈悲はいつくしみの心。母親の深い愛情よりもさらに深いものです。この二つが無限に注がれるのです。仏の命をあふれんばかりに頂いたとき、私の口からあふれ出てくるのがお念仏です。つまり仏の教えに耳を傾け、感動し、心から仏の教えを信じ、仏様の感謝と喜びから出てくるのがお念仏です。歎異抄第八段にも「念仏者にとって念仏は行でもなければ善でもない。念仏はただただ阿弥陀仏の他力によってとなえさせて頂くものである。」とあります。

それでは、信心の喜びに至らぬままにお念仏を称えるというのは、どういう事になるのか、という反問が生じるでしょう。つまり仏の教えを理解できない、また素直に受け入れる事が出来ないうちのお念仏は、自力のお念仏になると思うでしょう。しかし仏のお心は生きとし生けるものにもう既に降り注いでいるのだから、自力で称えたと思うそのお念仏も実は阿弥陀仏が私に称えさせたのです。他人に称えなさいと指示され、仏恩報謝に至らなくても、素直にお称えする気持ちがあるのだから、仏様のお心がとどいたと言えるでしょう。もし人にお念仏するように促すときには、仏様へのご挨拶という意味をふくめて、手を合わせ「南無阿弥陀仏」とお称えするよう、勧めるといいでしょう。お念仏の深いいわれをあじあわせて頂くためには、そのようにしてお念仏を身近に親しむという日常から始まるのではないでしょうか。