歎異抄第四章  他力浄土門の大慈悲

「慈悲」という言葉を聞いた事があるでしょう。直ぐに思いつくこ

とは仏教よりキリスト教の教えだと思います。キリスト教の基本を一

言で言えば、「神の愛」です。「父なる神、イエス・キリスト、聖霊

」その三位一体によって、全人類が救われるという教えです。その「

神の愛」を慈悲と呼んでいるのです。

 歎異抄第四章の冒頭は「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」と始ま

りますが、仏教でももちろん「慈悲」という御文はとても重要です。

この慈悲という言葉は
2つの言葉を合わせたものです。慈とは、慈し

みの心を持って他人に楽しみを与えること。悲とは、哀れみの心を持

って他人の苦しみを取り除いてあげることです。こういった慈悲を行

うことが出来るのは仏だけであって、尊敬の意味を込め大慈悲という

ことが多いです。ただし「慈悲深い」という言い方は仏教では使いま

せん。仏の慈悲はすべての人に平等で浅い深いはないからです。

 親鸞聖人はこの章で慈悲には2種類あると言っています。一つは自

力聖道門の慈悲で、あらゆる者を哀れみ、愛し、育てようとすること

です。だが、思うとおりに助けとおすことは、きわめて困難です。も

う一つが浄土門の慈悲で、念仏を唱えることによってすみやかに仏と

なって、仏の大慈悲心を持って、思うがままに生あるものすべてに恵

みを与えることです。

 浄土真宗は浄土門の教えですが、他宗の教えである聖道門の慈悲と

は、上記のように人間愛の理想を唄ったものです。愛情が人間関係に

最も重要であることは言うまでもありません。しかし仏教で言う絶対

的「慈悲」に当てはめると、人間愛は絶対信用なるものではないでし

ょう。どんなに愛していた人にも裏切られることもあるし、永遠の愛

を誓ってもいつかは別れの時が来ます。親鸞聖人も長男である善鸞と

の義絶や、門徒である信楽坊に裏切られるなど、どのように愛情深く

生きようとも、そむかれざるを得ない人間というものの運命、愛情の

限界に心を痛めたのです。

 人を愛することが無駄だとか言っているのではありません。自力で

人を助けたり信用することは素晴らしく、努力を惜しんではなりませ

んが、絶対挫折がなく永遠に続くことではない。だからそれは仏の大

慈悲には遠く及ばない。と思うのです。

 浄土門で考える慈悲とは、念仏を唱えて阿弥陀仏の極楽浄土に往生

し、そこで仏になったら仏のその大慈悲の心で、まだ救われていない

人々を救うということです。念仏をすればいつかこの身は極楽浄土に

往生し、そこで身に付いた仏の大慈悲心をもって再び穢土、すなわち

この世に戻ってきて、仏の慈悲で人助けが出来る。そして念仏を唱え

るということは仏の大慈悲を今受けとることにもなる。この大慈悲に

偽りや間違いは絶対にないのです。

 念仏はわが身のためだけではない。生きとし生けるすべての為に唱

えるのです。そしてその心は周りの人に伝わり愛情、平等、平和、な

ど少しずつ良い方向に導かれ、いつかこの世は仏の光でずっと明るく

なる。浄土門の考えは回りくどいかもしれませんが、決して偽りがな

く、効果絶大であるでしょう。