歎異抄 第七章 
〜浄土真宗の現世利益〜

歎異抄第七章に「真実の信心を得た念仏者にとっては、天地を支配するすべての神々だとて彼に敬服し、あるいは、悪魔や異教の徒も彼の妨害をすることが出来ません。」(現代語訳)とあります。この御文は浄土和讃の現世利益讃にも同じような内容が出てきます。

「南無阿弥陀仏を称えれば 梵王・帝釈帰敬す 諸天善神ことごとく よるひるつねにまもるなり」

「天神・地祇はことごとく 善鬼神となづけたり これらの善神みなともに 念仏のひとをまもるなり」(原文)

一般に浄土真宗では現世利益をタブーとしています。歎異抄や和讃に堂々と現世利益が出てくるということは、現世利益には世間で言われるものと浄土真宗のものと2種類あるようです。

つまり一般の現世利益とは物質的なものです。目に見えるものを期待し、それを得るために努力し、それを目的とします。修行の目的を利益獲得におくわけです。そして結果だけを得ようとするのです。結果だけを得たものは、消費されて、なくなってしまう時が必ず訪れます。

そこで浄土真宗の現世利益とは、精神的なものです。心を浄化するのが第一で、それに伴う利益は自然に生ずるものという考え方をします。信心には、自然に必然的に利益が伴ってくるものです。ですから利益をあてにしない、目的としない、そういう特色があるのです。

ですから上記の文は、念仏を称えたから諸天善神が、自分を取り囲んで守ってくださるだろうというのではなく、称えてみると、すでに守られていたことに遅まきながら気づかされるということです。交換条件のように、念仏を称えると諸天善神が守ってくださるということではなく、念仏を称える生活をしている間に、すでに自分が目に見えない諸天善神から守られていた事実に気づく。現に守られている事実に、ますます深く目覚めていくことではないでしょうか。

浄土真宗では現世利益を期待しての祈りは排除されなければならないと述べました。しかし我々は煩悩具足の凡夫です。病重い肉親の回復を祈るのは、人情です。嵐の海で消息を絶った夫や父の無事を祈るのも家族なら当然です。

このように祈らずにはいられない心情が皆無の人物があるとしたら、それはかえって恐怖でしょう。

他力の信心に生きるとは、そのような血も涙も無い人物になることではありません。祈ろうとする心と、それが所詮、我執に他ならないという考えの狭間に立って、内に激しく葛藤しながら、究極的に我執が克服されていく、そういう営みを他力の信心というのです。

参考文献 親鸞和讃 信心をうたう   坂東性純

     浄土真宗 門徒のたしなみ  藤岡正英