歎異抄第十二条 〜浄土真宗に学問は不要?

 

 私たちのお寺では、毎月のように法話会や行事法要を行っています。それに参加されるご門徒の数は年々増え、今では本堂に入りきらないという行事も少なくありません。特にいわゆるリピーターの方が多くなり、一度法話を聞くとまた聞きたくなるようで、まったく有難い限りです。

また毎月の「ニコニコ法話会」にも平日にもかかわらず、熱心に参加される方が増えてきました。ただこちらはお経の内容を理解するという趣旨があり、法話の内容もより専門的になっています。(数年前まで「お経の勉強会」という名前だった)平日開催なので参加できないという声もありますが、なにぶん休日は年期法要などで予定が埋まり、僧侶も本堂も繁雑になっておりますので了承いただきたいと思います。

さてその法話会の参加者は法徳寺門徒の十分の一にも満たないのですが、参加したくても出来ない他の方たちは、供養できていないのでしょうか。またご自身は成仏できないのでしょうか。もちろんそんなことはありません。それどころか、より多く参加し勉強しても仏の目から見れば皆平等、なんら変わりません。このことを歎異抄第十二条にはこう書かれています。「阿弥陀仏の本願を信じて念仏をとなえるならば仏になるのであって、そのほかのどのような勉強も往生には必要ではない」

なぜ浄土真宗はこのように容易に往生できる教えなのでしょうか。詳しく述べると大変長くなってしまいますので、簡単に述べると、まず自力の教え(他宗)は貴族や武家階級に支えられたことによって、学問としての位置づけがされてきたこと。浄土教は念仏のみで救われる易行だからこそ、庶民に支持され発展してきたことです。

では浄土真宗は無知な教えなのでしょうか。決してそうではありません。第一条にも「阿弥陀仏の立てた衆生を救おうという堅い誓いは、往生を信じて念仏をとなえようと思うとき、十方世界の光明の中に人を抱きこみ、決して捨てはしない」とあるように、阿弥陀如来を本尊とする浄土真宗では、修行や学問は成仏には関係がなく、信心が大切なのです。

つまり勉強で知識を増やすより、より仏の話に耳を傾け疑いなく受け止め、信じる心を持つことが大事なのです。阿弥陀仏の大慈悲は広大であるからこそ、それにすべての身を任せる他力の教えが成立するのであって、自らの力で成仏しようとするならば、阿弥陀仏を疑うことになりかねません。ですから供養をしたい、仏教に興味を持ったというならば、仏の教えを勉強するというより、仏の教えを聞き身近に感じていただき、好奇心を深め、自分自身で研鑽をしていただきたいのです。だから「お経の勉強会」を改め「ニコニコ法話会」と改名したのです。

次回の法話会から、「讃仏偈」の説明が始まります。単なる説明ではなく、経文から信心へつながる話が出来たらいいと思っています。