歎異抄第十三条  〜「悪」は往生の妨げにはなりません〜

 断腸の思いで、ここで告白させていただきます。実は私は最近、釣りが好きになりました。

だからどうしたと思うことでしょう。しかし僧侶が釣りなど嗜もうものなら、厳しい非難を受けることは避けられません。漁師なら生業としているのだから仕方ないにしても、殺生を禁じる仏教徒として有るまじき行為だと、批判されるでしょう。

私にも言い分があります。先ず3歳になる息子が見ているアニメで、釣りの話があったので私が実際にやりたくなったのですが、これは教育にいいのではないかと思ったのです。 

私たちは食卓で肉や魚を食べます。これらがどこから採取して、どういう経路で私たちの口に届いているのでしょうか。命の尊さ、生き物を殺して食べなければ、人間は生きていけないことを理解するには、実際に採取の現場を見ることは大事なことではないかと思います。

捕った魚は必ず食べます。但しフグなど食べられない魚はリリース(海に返す)をします。面白がって釣って、口に傷をつけて可愛そうにと思うかもしれません。でもリリースが目的で遊ぶ釣りとは違います。食べられない魚が「釣れて」しまったのです。この辺は賛否両論あるかもしれませんが、私も申し訳ないと思います。

さて食卓で食べるのですが、さっきまで生きていた魚には気の毒です。でも同じ殺生をしたのに、スーパーで買った魚には同じ思いはしてきません。これは殺生を漁師に任せている我々の勝手だと思うのです。経路は違うにせよ、命を頂くことには変わりはありません。同じならより懺悔しやすい、「悪行」を自覚しやすい「釣り」をするのも許されるのではないかと私は思います。

歎異抄第十三章でも「悪行」について述べられています。

「善人であろうと悪人であろうと、往生に変わりはない」その考えは逆説的で、単純に考えると非常に不平等な教えに聞こえるかもしれませんが、実際は仏の慈悲の甚大さ、凡夫の愚かさをついた、奥深い思想です。すべての人が殺生や悪行を繰り返し、生きていかなければならない、「悪人」なのだということ、そしてそれを自覚し、仏の教えにすがる思いを高めてもらうためにあえて、突拍子な言い方をしたのだと思います。殺生などの「悪行」を自覚することは、凡夫である我々が出来る最大の「善行」だと思います。