歎異抄(1)

 今回からは、毎月続くとは限りませんが、歎異抄(たんにしょう)について書き

たいと思います。歎異抄と言われてもピンとくる方は少ないかもしれませんが、

歴史の授業で題名だけは聞いたという方は多いことだと思います。お坊さんの

書いた書物ということから、それはお経だと思うかもしれませんが、歎異抄は

お経ではありません。言うなれば親鸞聖人の語録といえる書であります。

 親鸞聖人は教行信証などを書きましたが、歎異抄は親鸞の弟子の唯円(ゆ

いえん)という僧が、覚えていた師の言葉を書き残したものです。親鸞聖人が

亡き後、伝えられた信仰とは異なる教えがはびこるようになったので、正しい

道に戻すべく親鸞の教えを集約した歎異抄を書いたわけです。決して長い御

文ではありません。読むだけだったら1時間もかかりません。それだけに親鸞

の教えがぎっしり詰まった内容になっています。本文を全て載せるのは大変で

すので、興味のある方は書店で「歎異抄」を購入して頂き、今回は特に重要な

部分を掻い摘んで、要約し紹介したいと思います。

 第1章には、「阿弥陀仏のたてた、衆生を救うという堅い誓いは、浄土へ生

まれることを信じて念仏を、称えようと思うとき、既に、十方世界の光明の中に

人を抱きこみ、決して捨てはしない」とあります。これは阿弥陀仏の限りない慈

愛のことですが、我々(衆生)は仏を敬い念仏を称えようとするならば、もう既

に、仏にがっちり包まれているということを示されています。

 さらに「阿弥陀仏の本願は、人の老少とか、その善悪を問わずに、ただひた

すら信心にかかっているのである」とあります。これは、信じる心さえあれば、

念仏を称えるかどうかも関係ない、老いも若きももちろん、善人も悪人さえも

平等に、阿弥陀仏の力ははたらくということです。

 私たちは生きていく上で家族に頼り、会社に頼り、病院に頼る。そんな現実

の社会で信じきって、頼りきっていたものに、時には裏切られることも少なから

ずあるでしょう。決して平等ではない、広大なる慈愛もあるとは限らない、それ

らにすがりつくように「信じて」いないだろうか。もちろん人や会社を大事に思っ

たりすることは、大切なことでしょう。ここで言いたいのは信仰の対象のように

すがったり、心の拠り所としたりしてないかということです。世の中に「絶対」は

ないといわれます。しかし絶対間違いのない、裏切ることのない方こそ阿弥陀

仏なのです。仏に頼る、阿弥陀仏に頼る。そうすれば心のよりどころとなる、

光の充ち満ちた世界に抱き込んで下さるでしょう。その要が我々の「信心」な

のだとこの章では言いたいのでしょう。