歎異抄第九条 〜念仏をしても喜べない〜

 

 皆さんは普段の生活で、仏壇やお墓に向かって故人を思い出しながらお念仏をすると思います。しかし前にも書いたとおり、お念仏は、今は亡き故人を縁にこの私が仏の教えを聞かせていただく場です。そして仏の教えを聞くうちに、阿弥陀様の寛大さや浄土の素晴らしさから、憧れの思いがあふれてくるはずです。ところが私も皆さんもきっと、早く安らかな世界だというお浄土へ参りたいなとか思えないだろうし、少しでも体の具合が悪くなると、死ぬではないかと心細くなると思います。それは極楽浄土へ参らせていただくことが定まっていて、その心構えが出来ているはずの、我々浄土真宗信者として矛盾しているのではないか?疑問に思うことだと思います。

 歎異抄の著者である唯円さんをそう思っていた一人でした。唯円さんが親鸞様の事実上の弟子となってから30年もの歳月を経て、唯円さんはその疑問を師親鸞様に伝えます。きっと激怒されると思ったに違いありません。長年師に仕えてきて、未だ師の教えから喜びが沸いてこないと言うのですから。勘当も覚悟の上だったのではないでしょうか。

 しかし親鸞様から思いもかけない言葉がでました。

「私もそういった疑問を持っていた。唯円坊も同じような気持ちだったのだね。」

と念仏の教えのいわば創始者である親鸞様が、実は私も喜べないでいると告白されたのです。しかしこれには明確な答えが用意されていました。

「つくづく考えてみるに、本来、天に踊り地に踊るほど喜ばしいことを、我々は喜べないのだから、かえって往生は間違いないと思わなければなりません。喜ぶべき心を抑えて喜ばないようにしているのは、我々が持っている煩悩の仕業です。」

と全ての疑問を打ち砕く答えを教えてくださったのです。病気になると不安になるのも、極楽浄土が恋しくないというのも煩悩が強いせいだったのです。しかしこの世が名残惜しくとも命の炎が消える時には浄土へ行ける。そして仏は急いで浄土へ行きたいと思わぬ凡夫にこそ救いの手を差し伸べてくださるのです。だからこそ我々は仏の大慈悲の有難さをわかり、煩悩具足の凡夫ゆえに往生間違いない信じられるわけです。

念仏して踊るほどの喜びがあって、急いで浄土へ行きたいと思うようであれば、むしろ自分には煩悩がないのではないかと疑わしく思うべきなのです。

 念仏の教えを広める立場の我々僧侶でも、念仏の教えに喜べない。そのような疑問を持つときがあるのです。皆さん門徒さんならば尚更だと思います。しかしそれは自然なことで浄土真宗の教えが平等で、素晴らしい教えだからこそ当然のことだと解りました。

そして最もよくないことは教えを全て飲み込み、信心を得たと思い込み偽善者ぶることだと思います。喜びが沸いてきているならば、それは間違った優越感から出ているに過ぎません。

参考文献   マンガ歎異抄入門 ひろさちや