歎異抄 第十条 〜座禅と念仏〜

 

「宗教とは何のためのものですか」とよく言われます。結論は「何のためのものでもない」というのが正しい答えだそうです。禅宗の教えでは「座禅は、ただ座禅するのである。それが大切だ」ということを繰り返し言うそうです。さて浄土真宗ではどうなのでしょう。「念仏は、ただ念仏するのだ」これが正しい答えだそうです。

 浄土真宗を他力念仏の代表としますと、禅宗は自力の教えの代表です。この両宗がそれぞれ両極端にいながら一致した部分があるのはおもしろいことです。

「念仏は説明をしないということがもっとも大切なことです。それは、褒め称えても称えつくせないし、説明しても説明しつくせないし、心で考えても私たちの心の及ばないほどの深さがあるからです。」

と歎異抄第十条(意訳)に書かれているとおり、宗教のことも、座禅も、念仏もまずは、あさはかな自分の考えを捨てることが正しいのです。お釈迦様が三十五歳の時、菩提樹の下で覚りを開かれたというのはいわば、この「はからい」を捨てられたわけです。

親鸞聖人においても同じことが言えます。聖人が比叡山にこもって二十年もの間、天台宗の教えを学び修行ましたが、どれほど研鑽をつまれても、光が見えてきませんでした。そこで山を降りて、京の地に法然上人を訪ねた親鸞聖人は、初めて他力念仏の教えにふれて心が洗われた思いをもつのです。聖人は自力の教えにはなじめず、自分の「はからい」を捨てて、他力念仏の教えに活路を見出して行くのでした。

自力の教えにはどうしても自分の「はからい」が付きまといます。それは「自分の力で仏になるのだ、近づくのだ」「これだけ修行をしたのだから効果があっただろう」こういった考えを避けるために「座禅は、ただ座禅をするのです」というのでしょう。

 こういった自分のはからいを一切捨てるのが、他力の教えです。仏の力は我々が推し量ることが出来ないほど大きなものであって、その仏の本願に助けられて我々は往生できるのですから、念仏においては人間のはからいを捨てなければならないのです。

参考文献 歎異抄私解 大谷暢順

     歎異抄に学ぶ大乗仏教入門 本多静芳