歎異抄第十一条〜浄土真宗は変わった教え?

「浄土真宗は変わった教えですね」とよく言われます。代々浄土真宗であった家庭でも仏法にあまりふれてこなかった方が、どなたかご家族を亡くされたときよく聞く言葉です。先日も、「仏壇には位牌も置かなければ、お水もお茶も供えない。その代わりご飯を供える。こう本には書いてありましたけど本当ですか」と、半ば呆れ顔で訪ねてきた人がいました。私は「その通りですが、絶対守る必要はありません。必要がないというだけで、備えてもかまわない」と答えましたが、どうにも納得がいかない様子、どうやら世間で言われている一般的供養との違いに、この宗派は変わっていると思ったようで、改宗をしたいという始末。関東では、浄土真宗の教えはあまり広まっておらず、一般的な慣わしとのギャップに違和感を覚える人は後を絶ちません。

教義についても、意義が発生しやすい部分が含まれていることも事実です。難行である自力聖道門(修行や座禅をする宗派)を否定し、ただ念仏を称えることで往生が可能だと説く他力念仏の易行は、「自分で努力もせずに仏任せで成仏をしようとする宗派」と他宗からは思われ、誤解を生じ、今日でも浄土真宗では重要な仏教用語である「他力本願」などは常に間違った使われ方をしています。しかし念仏の教えは、道徳などを超越した考えで成立する教えなのです。

仏の力は人間の善悪などの道徳を超えて存在する。仏は悪人こそを救おうとする。

などという他力念仏の教えは、意義を生みやすいものです。この教えを誤解すれば、自らすすんで悪行を重ねるという方向が簡単に生まれます。こうした異義の戒めとして、親鸞聖人没後この「歎異抄」が必要になったのです。「悪人」に関しては第三条に詳しく記しているのでふれませんが、簡単に言えば、阿弥陀様の側から見れば煩悩に満ち溢れた我々凡夫は、皆悪人であり、善人など皆無です。むしろ善人だとおごり高ぶっている人には仏にすがる気持ちが芽生えることはないのでよくない。ということです。

 荘厳についても浄土真宗の作法は本来の仏教の教えを受け継いだものです。位牌を用いないのは、中国の儒教の教えで、人間は命終えたら魂と骨になるとの考えから、骨は墓に、魂は位牌に宿る。という考えから生まれたものです。仏教では故人自身が仏になり、極楽浄土に旅立つとの考えです。

 水やお茶を供えないのも、極楽浄土は美しい水が満ち溢れているから、この世の水を供える必要はないとの考えです。

 いずれにしても、浄土真宗は他宗に比べて変わった部分が多いのは事実ですが、全て理にかなったものであり、世俗で信じられている風習には出所の疑わしいものが沢山あるということです。世間で言われている風習も慣わしとして大事ですが、それぞれの宗派の教えをよく聞くことはもっと大事だと思います。